2011年12月6日火曜日

☆本日のお話☆

(゜Д、゜)ウブカタ「よし珍しく今日はパパが絵本を読んであげよう」
(・ω・)マイサン「えー、めずらしすぎるー。読まないで、パパ」
(゜Д、゜)オヤバカ「ははは、素直なやつだなあ。さてさて、シンデレラは……」
(・ω・)「ちがうの、マイサンがパパに読んであげるの」
(゜Д、゜)「なんと……。知らないうちにマイサンは成長するものよ。それではぜひパパに絵本を読んで聞かせてくれたまえ」
(・ω・)「えっとね、し・ん・で・れ・らは、みんなの前で、おならをしました!」
(゜Д、゜)「大胆不敵なシンデレラだね」
(・ω・)「ままははは、しんでれらをころすことにしました」
(゜Д、゜)「放屁罪だねマイサン」
(・ω・)「ままははは、まほうのかがみに、言いました。もしもし、かりゅうどは、どこですか」
(゜Д、゜)「携帯電話みたいなまほうのかがみだね」
(・ω・)「ママハハは、かりゅうどに、しんでれらをころせと言いました」
(゜Д、゜)「合ってるよマイサン、合ってるよ」
(・ω・)「かりゅうどは、しんでれらを、森につれていきました」
(゜Д、゜)「うむうむ」
(・ω・)「かりゅうどは、しんでれらを、ころしました
Σ゜( Д、゜)「実行!?」
(・ω・)「しんでれらは、しにました」
(゜Д、゜)「主人公不在!」
(・ω・)「かりゅうどは、しんでれらが、すきでした」
(゜Д、゜)ドキドキ「いきなりドラマチック!」
(・ω・)「かりゅうどは、しんでれらになりました
Σ(゜Д、゜)「なにぃ!?」
(・ω・)「しんでれらは、こびとさんたちの、お家にいきました」
(゜Д、゜)「しんでれら=かりゅうど!? なんと斬新な!」
(・ω・)「しんでれらが、おそうじをしたので、みんな、なかよくなりました」
(・ω・)「おしまい!」
(゜Д、゜)「ハッピーエンド!?」
(・ω・)「ままははは、かがみに言いました」
(゜Д、゜)「第二章開幕か、マイサン!」
(・ω・)「このよで、いちばん、きれいなひとはだれですか」
(゜Д、゜)「合ってる、だいぶ合ってるよ、マイサン!」
(・ω・)「かがみは、しんでれらです、と答えました」
(゜Д、゜)「美貌のかりゅうど!?」
(・ω・)「ままははは、しんでれらたちを、ころすことにしました」
(゜Д、゜)「こびとさんたちも視野に入れるとは、すごい殺意だねマイサン」
(・ω・)「ままははは、どくりんごをひとつ、買いました」
(゜Д、゜)「市販品!?」
(・ω・)「ままははは、どくりんごをひとつ、食べました」
(゜Д、゜)「自決!?」
(・ω・)「ままははは、わるいまじょになりました」
(゜Д、゜)「りんごで変身!」
(・ω・)「ままははは、森へ、ぴゅーっていきました、すぱだーまんみたいに!」
(゜Д、゜)「スパイダーマンだねマイサン!」
(・ω・)「そう、それ。しゃーってやって、びゅーんて飛ぶんだよ知ってる?」
(゜Д、゜)「知ってるとも。すごいアグレッシブなまじょだね!」
(・ω・)「おしまい!」
(゜Д、゜)「気になる! ままははのアクションが気になるぞマイサン!」
(・ω・)「もう、ねんねしなさい」
(゜Д、゜)「もうちょっと! もうちょっとだけ!」
(・ω・)「えー、しょうがないなー」
(・ω・)「ままははは、しんでれらとたたかいました」
(゜Д、゜)「さすがはかりゅうど、徹底抗戦だね」
(・ω・)「森が、だいばくはつしました」
(゜Д、゜)「なんと!」
(・ω・)「ままははは、やられました」
(゜Д、゜)「しんでれらに続き、ままははまでも倒したか、かりゅうど!」
(・ω・)「ままははは、しんでれらのおばけに会いました」
(゜Д、゜)「ここでよもやの主人公復活!」
(・ω・)「ままははは、しんでれらのおばけと味方になりました」
(゜Д、゜)「因縁のタッグ!」
(・ω・)「おうじさまは、おうまさんと、ちゅーしました」
(゜Д、゜)「なにやってんの!?」
(・ω・)「こびとさんたちは、おうじさまを、うめました
(゜Д、゜)「何の罰なの!?」
(・ω・)「おしまい!」
(゜Д、゜)「っえー!? 続きは!?」
(・ω・)「パパかんがえてよ」
(゜Д、゜)「あー……」
(・ω・)「ねんねしなさい」

2011年7月15日金曜日

本日のお知らせ

☆本日のお知らせ☆

『マルドゥック・フラグメンツ』内収録短編と、ある漫画賞受賞作品との間で生じた問題につきましてコメントいたします。




 ※主文※

 関係者からご連絡をいただき、すでに賞を運営されている編集部と、描き手の方、双方より、謝罪文を公表する意志を示していただいております。

 そもそも、攻撃的な悪意があっての行いではなく、先方の迅速な対応があったことから、その後の早川サイドと先方との話し合いが穏便に進む限り、僕から何かを申し立てる、というようなことはありません。

 また、インターネット上で非難されるなど、すでに編集部および描き手の両サイドが、いわゆる「社会的警告」を十分に受けているとのことです。

 よって、今後は一件がスムーズに収束し、むやみと尾ひれがつかぬこと、関係者全員の成長の機会となれることを切に望みます。

 また、僕自身も今回の一件を、より良い作品作り・業界作りのためのヒントの一つとして受け止めたいと思います。





 ※今件の試案※

 重要なのは、作品が類似することそのものではありません。

 多少、キャラが似ようが、語彙が似ようが、物語の展開が似ようが、作風が似ようが、正当な作品作りをしている限り、誰も問題にしません。

 そうではなく、「ある人が正当な対価を得るのを、邪魔する可能性を作る」こと、これが今回の問題の核心であったと考えます。

 作品を世に出す過程で、多くの人間が労力を費やし、時間を割き、アイディアを振り絞っております。
 そうした人々にこそ、対価が支払われるべきである、と考えるのは自然なことでしょう。そうでなければ、誰も、作品作りを本業にしたいとは思わなくなります。
 そのような対価を侵害し、正当な報酬を受け取ることができない人々を作ってしまう可能性こそ、「著作権侵害」として咎められるべきものなのです。


 マルドゥック・シリーズにつきましては、今なお早川書房の編集者が非常な労力を費やしており、さらには漫画が連載中であり、アニメ作品が製作中であり、主要参加者だけでも延べ100人以上にのぼっております。

 その全員が、作品に尽力している最中であることから、原作者としては、まず第一に、彼ら参加者たちの正当な対価を守る態度を取らねばなりません。

 ですから、

「作ってしまったのだから後付けで原作権を貸与する」

「引用を黙認あるいは追認して販売に賛成する」

 といったことは、現状の僕自身、許されていないのです。

 
 もしこれが今から二十年後であったならば、違う態度を取ったかもしれません。70ページ超もの紙面を絵で埋めることが、どれほど労力がかかることか、よく存じております。
 しかし今回は、はるかに巨大で長期にわたる労力を費やしている人々がおり、僕もふくめ、いかなる対価の侵害も許されない状況にある、という点を、重ねて、各関係者および読者の方々に、ご承知いただきたい次第です。



 ただし。

 更にこの上、記者会見や賠償や雑誌回収といった、攻撃的制裁をはかるのは、明らかに過剰反応であり、そんな馬鹿げた主張をしたところで、何ら良い結果になりません。


 今後、編集部と描き手が全ての言い訳を棄て、修練に励み、最高に独創的で面白い作品を発表せねばならない、というハードルの高さこそ、何よりの試練となり、ひるがえって業界の健全な活発化の良い契機になると考えます。




 ※さらに試案※


 もちろん、上記のような考え方を前提としつつ、むしろ過去の作品と類似したもの、引用を積極的に行うものが、歓迎される場合もあります。

 状況によって千差万別ですが、主に、次の三つのパターンが考えられます。


 第一に、競合作品をあえて出すことで、シェアに食い込もうとする場合。

 第二に、時代風潮やジャンルを分析することで、必然的に互いの作品が似てくる場合。

 第三に、意図的にパロディやオマージュを仕掛ける場合。


 いずれの場合も、編集者やプロデューサー、あるいは制作者の狙いがあり、状況も千差万別で、ときに争いも起こります。場合によっては、制作陣の内部で反発が起こることすらあります。しかしその争いが、建設的な競争である限り、必ず良い結果につながってゆきます。

 その暗黙の大原則こそ、「業界の活発化」であるというのが冲方の態度です。

 競争があるからこそ、どの作品も洗練され、分析力が高まり、過去から現在へのジャンルの歴史が浮き彫りになる。そして、おのずと業界の注目度が高くなり、買い手が増える。結果、業界に参加する全員の、利益を得る機会が増える。

 たとえ一社・一者の独占的な状態が、一時的には利益をもたらしてくれるとしても、その状態をいつまでも維持できるわけではありません。むしろ多数の参加者があることによって、発展的な成長があると考えます。


 ただしそうした活発化には、様々な大前提があり、その一つが先述の「正当な対価の保障」、そしてまた一つが「新しい視点」です。

 あまりに類似した作品群が多くなると、当然のことながら買い手は飽きてまったく買わなくなるか、もしくは少数の作品に傾倒し、他はかえりみなくなります。どれを見ても似ているなら、労力を少なくするため、少数作品から他を類推するようになるのが自然な成り行きです。

 そのような「飽き」を吹き飛ばす「新しい視点」を提供して行くことが、昨今では大いに求められているように感じます。そのための類似であるならば、むしろ歓迎されることになるでしょう。とはいえ、それはきわめて困難なニーズであり、努力と失敗を何度も重ねることでしか、応えることはできません。

 

 ※もうちょっと試案※

 しかし一方で、上記に属さない、第四のパターンが、いまや大きな認知を得ている状況にあります。

 インターネットや即売会といった発表の場の多様化、アプリケーションや印刷・編集技術による表現の容易さによって、既存の作品を流用したマッド作品や同人誌の流通が増大し、多くの観客の心をつかむことに成功しました。

 これも状況次第ではありますが、多くは、

「広告効果」

「ファン同士の交流」

「セミプロの育成の場」

 という三つの点で、多少なりとも業界に貢献しているとみなされる限り、原作サイドから黙認されるか、むしろ喜ばれる傾向にあります。

 ですが、そもそもなぜそうなったかと言えば、単にインターネットや同人誌といったものに関する法制度が、空白だらけだったからでしょう。

 いわば、だだっ広い草原を、みながめいめいに動き回り、家を建てたり、車を走らせたりしている状態で、どうしようもなかった、というのが現実だと考えます。

 いずれ衝突事故の多い場所から「交通整理」が行われてゆくでしょうが、まだしばらくは、「抜け道だらけの巨大な空き地」とみなすしかありません。

 そして、あまりにその空き地が広々としているものだから、「空き地の外」までもが、同じような状態である、と信じてしまう傾向が生じるようになったのではないでしょうか。


 今この時代、プロになるとは、まずそうした「空き地」を棄てることを意味するようになってきていると感じます。

 「空き地」を出て、新たに入るのは、建設に建設が重ねられた、より巨大な場です。

 過去何十年もの間、とてつもない数の人々が、本当に信じがたい努力を費やして築いてきた場所です。

 しかも、様々な条件に従って、はじめて参入できるそこは、厳しく、複雑で、報われることが少なく、理不尽な戦いを永遠に続けねばならない場です。

 もちろん、そこでしか得られない、素晴らしい喜びと学びに満ちていることも確かです。しかしプロになってのち喜びと学びを享受できるかどうかは、誰にもわかりません。


 他方、「空き地」は、今後ますます、豊かで、面白く、刺激のある場になるでしょう。

 ときに自分を育て、鼓舞し、癒してくれる大切な場になるに違いありません。

 万人に解放されており、いつでも自分に共感してくれる誰かがいて、自分が好きなものに没頭できます。自分が何かを作るための材料も手段も惜しみなく与えられ、アイディアを実行に移すことを止められたり、実現を妨げられたり、様々に条件を課されることなど、ほとんどありません。

 黙って座っていても、次々にどこかで生まれた斬新なアイディアを受け取れるし、誰かが作ってくれた何かを好きなだけ享受できます。

 どんなものに対しても、共感するかどうか気ままに決められ、どんな野放図な考えを抱いてもよく、思いついたこと全て、いつだって好きなように発表できます。

 本当に、誰にとっても生き甲斐となれるような、素晴らしい、愛しい場所です。

 だからこそ、そこで学んだ自由さが、絶対的な基準になってしまうことがあるのでしょう。



 さて。



 その愛しい場所を去れますか?

 豊かな空き地で充実していられた日々の一切合切をなげうち、自由を背後に置き去りにして二度とかえりみず、ただ愚直に、約束されない喜びと学びを求めて、孤独な不自由の道を、選んで歩み続けることができますか?





 そんな問いが、今後あらためて、あらゆるプロ志願者たちに、そして僕自身に、課されるようになるかもしれません。

 冲方は、けっこうそんな気がしております。

 

2011年4月24日日曜日

☆本日のいただきもの☆

『100,000年後の安全』
http://www.uplink.co.jp/100000/

日系エンターテイメントさんを経て、UPLINKさんよりサンプルDVDをいただきました。
ありがとうございます。


これは人類社会が経験する、最も「永い物語」である。

フィンランドで建設が進められている、放射性廃棄物の永久処分場「オンカロ」。
その巨大な地下都市のごとき施設の役割は、集積された放射性廃棄物が安全になるまで、人々を遠ざけ、忘れ去られること。
その想定期間は、実に10万年。

この映画が教えてくれるのは、原子力発電というものがいったい人類にどのような課題をもたらしたか、ということだ。
原子力発電というものを真剣に考えたとして、我々にはどこまで「考える能力」があるのか?
10万年。ネアンデルタール人から、今の人類へ「世代交代」するまでと、ほぼ同程度の時間だ。
そんな巨大な時間を、現代の社会問題として扱った経験など、誰にもあるはずがない。ネアンデルタール人にまで遡ったところで、一人もいないだろう。ましてや10万年もの間、機能を保ち続けた建造物など、この地球上に存在した試しがない。
だが原子力発電によって生まれる放射性廃棄物は、我々に、想像を絶する問いかけをもたらした。

10万年後のことにまで、我々は責任を負うべきなのだろうか?

このドキュメンタリー映画に登場するのは、「YES」と答えた人々だ。そして彼らこそ、人類が今後経験するあらゆる物事の中で、「最も永い物語」に挑んだ、最初の人々になるだろう。


映画を見終わって考えさせられたのは、今の「原発反対か、賛成か」という議論が、いかに未知の問題を棚上げしているか、ということだ。
多くの人々は、数カ国、数十年といった程度のスパンでしか考えていない。僕自身もそうだ。というより、それが大半の人々にとっての限界だろう。
そして、そうした限界をあざ笑うかのように、原子力発電所の「安全」は、多くのものごとが確実であるにもかかわらず、どう対処すべきかは決まっていない。

最終処分を行わなければならない放射性廃棄物の恒久的な処分方法は、先進諸国でも決まっていないか、実施されていない。
インドや中国や中東地域といった世界中の国々が、西欧先進国と同じ電力量を消費できるようになるには、原子力発電所があと千基かそこらは必要になるらしい。そしてそうした国々の中には、戦争で原子力発電所が破壊される可能性のある地域が少なからずふくまれている。
いずれ石油と同じように、ウランも尽きるが、その後の代替エネルギーは想定されていない。放射性廃棄物を再利用する技術は存在するが、それによって生じるプルトニウムなど、核兵器に転用できる物質の問題は解決されていない。

「地層処分」というフィンランドの決定の背景には、こうした問題を「本当に考えた」とき、想像を絶する課題が待ちかまえているという事実がある。

あなたは10万年後の未来を「考える」ことができるだろうか。
10万年後の未来に、責任を持つべきだと考えるだろうか。
そして、10万年後の人類を、信頼できるだろうか。