2020年1月1日水曜日

あけましておめでとうございます。



ハロー、2020年の皆様方。
SNSデトックスをちょっと経て元気いっぱいの冲方です。

案の定、Facebook、Instagram、Gmail等々、削除すれども復活するヒドラの首のごときSNSアプリを無視し、久々に昔のクリエイティビティを取り戻せた気が致します。

とはいえ、下記のネット強者どもの意見にも耳を傾けている次第。

一つ、いざというときの個人的な声明の場はSNSにおいて確保すべき。
一つ、ネットにおける教育の効用を無視してはならない。
一つ、ネットにおけるクリエイティビティの発揮はこれからである。

いずれも一理あるゆえ、ひとまず過去十年の記事を大掃除し、今後の空白を広々としてみた。

さて。
この先、ネットに直接書き込む動機としては、おのれの言い分・クリエイティビティ・教育・広告、という点以外に思い当たらない。そしてそれらの多くは既存の媒体で書けばよく、ブログでしか出来ない何かがあるかどうかは不明である。

答えが得られたときに更新致します。
それまで、アデュー。
みなさまが素晴らしい2020年を過ごされますよう!

2019年7月24日水曜日


ネタバレを望まぬ者、読むべからず

『天気の子』を拝見して思うところを書きたい。

その前に、肝心要のお断りを述べたい。

これは、とても素晴らしい作品であると感じ、だからこそ色々と想像力を刺激されているがゆえに書かれた文章であって、ディスりたい気持ちなどこれっぽっちもないということをご了承頂きたい。

たとえば漫画家やイラストレーターが、とても素敵な他社のキャラクターと遭遇した結果、「自分だったらこう描く」などと、仕事しろよ、と誰もが言いたくなるであろう絵をほいほい無償で公開することがある。
以下の文章はそれと同様の気分で書いてあるのであり、特段、誰かにもの申したい気分などこれっぽっちもないことをお断りしたい。


というわけで。
『ハウス・ジャック・ビルド』が大変マーベラスであり、『スパイダーマン・ファー・フロム・ホーム』がエキサイティングであり、『トイ・ストーリー4』がエモーショナルであり、そそくさとかつ意気揚々とビールを鯨飲しながら『天気の子』を観劇したところ、まったくもって遜色ないジャパニメーションにわくわくした次第。

序盤、特段に言うこともなく、満足。
 (一点だけ最後まで悩ましかったことはあるが、それは最後に書く。)
中盤、ますます言うこともなく、大満足。

「みんなで逃げる」ことを決めてのちの終盤。
「自分が小説で書くならこうする」という、いつもの気分が勃発し、それがむしろ大変心地好かったので(素晴らしい作品に後からこうすべきと意見を述べるのはそれだけ楽しかったからであって、塗り絵に色を塗るようなものだ)、おおまかなところを下記に述べたい。


さて終盤。

1 ラブホテルという高額な避難所にして一夜の憩いの場と、凍える冷気に耐えねばならないどこかの路上(屋根つき)のシーンの順番と意味を逆にする。
2 ヒロインが主人公に料理を振る舞った際の「ハサミ」の描写。
3 主人公のキーファクターである拳銃。
4 終盤になって強力な意味をもたらす手錠。
5 主人公が戻らざるを得なかった島。
6 「天気の子」というテーマにおける、晴れと雨、アカシとクラシ。主人公とヒロインの立場の変転について。
(7 序盤から妙に気になり続けた点。最後に書くと先述した点である)

これら六点(七点)について、自分ならこう書きたいなあ、という気分に従って書きたい。

1 順番を逆にする。
ラブホテルというものは、昭和映画における、「最後の避難所」である。
その文脈を大いに活用しており、「夜が明けたら出て行かねばならない、いわば絶望を受け入れるための最後の場所」であることが描かれている。そして自分なら、こう描きたいという気持ちが大いに刺激される。

問題は、風雨をしのげるラブホテルのぬくぬくした状況で「晴れてほしいか」と質問され、しかも前段で「命や存在にかかわる」ことを明示された挙げ句、イエスと答える主人公を、もっとこうしたら良いのではないかという点である。

結論から言って、その前のシーンで凍えている描写があるので、順番を逆にし、そこを「晴れてほしいか」と問うシーンにすればいい。

いったんラブホテルに首尾良く入り、有り金をはたいていっときのぬくぬくを得て、ヒロインの悲劇的な告白を主人公が受け入れてのち。
ヒロインを守りたい主人公であるが、金もなくなり、行き場もなくなり、ただ屋根のある路上で、三人ともに凍えて寝るしかないそのとき。
極寒がもたらす生命の危機において、意識朦朧とする主人公に、ヒロインが尋ねるのが、「晴れてほしいか」ではどうだろうか。
主人公はヒロインの弟とともに『火垂るの墓』なみに消耗しきり、意識も混濁する状態で、「うん」と言ってしまう。
微笑むヒロイン。
眠りに落ちてしまう主人公。

そして朝が訪れたことに気づき、目覚める主人公と弟。そのもとにのみ届けられている、ヒロインがその存在の最後の名残をかけて残した、か細い日差し。その温もりが、ラブホテルと等しく、あるいはそれ以上に、主人公と弟を生存させたわけである。
だが、彼らの傍らには、ヒロインの抜け殻そのものである衣服があるばかり。

こうすると、終盤、弟が「お前のせい」と主人公を咎めるセリフも、弟の内心では「自分もそれで温もりを得た」という悲しみが上乗せされるので、ますます高揚感が期待できるセリフになるのではないか。

2 ハサミ
ヒロインが主人公に初食事を振る舞うシーンで、鮮やかに振る舞われるのはハサミの描写である。
包丁の代わりにハサミを使うヒロインの「生活力」と、それを身につけねばならない「貧乏くささ」の描写であるといえば、それで完結してしまう。
だがこれを終盤に活かせないだろうか。
というのも、ヒロインは最後の決断によって、「積乱雲の生態系」に自ら赴くことを決めるわけである。
そして積乱雲の頂上に横たわるヒロインに、謎の魚たちが群れ集っているのである。
この魚たちは、何をしているのか? ヒロインを餌だと思って食いたいのか? あるいはヒロインに何かを促しているのか? ヒロインを新たな共存者とみなし守っているのか?

こうした疑問に、ある程度の解答を与えるため(全面的に解答を与えてしまうと、謎の魚の神秘性が失われてしまうので)、ヒロインと地上をつなぐ、細い糸みたいなものがここで描写されるとどうだろう。
そしてまた、ヒロインが積乱雲にのぼってのち、奇妙なことに手にしているものが、ハサミであったらどうだろう。(魚たちが地上からヒロインが使っていたハサミを持ってきてもいい)

もちろん、ここでヒロインがハサミを持っているという必然性を生むためには、彼女が持つハサミに何かの意味(たとえば母親が同じようにハサミでネギを切っていたなど)が必要になるだろう。
なんであれ、ヒロインは魚たちに促されるようにして、自分と地上とをつなぐ、最後の何かを、おのれが手にしたハサミで切り断ってしまう。そのことによって、主人公と弟がいっときの命を得る、というシーンを加えてはどうだろうか。

こう書いてきて、むしろハサミの使用はやや強引な気もしてきたが、ここで意図されるべきは、ヒロインの意志の強さである。彼女の文字通りの「決断」によって、大切な誰かの役に立とうとする態度である。
そしてそれが、主人公を最終的に動かす引き金とならねばならない。

3 拳銃
終盤で放り出すなら、最初から持っていないほうがいい。
警察が彼を追ってくる理由としては、強力すぎる。銃刀法違反である。それだけの重責を主人公に与えるなら、彼の「行き過ぎた願望」に直結すべきではないか。

結論からいって、拳銃を片方の手で握り、もう一方の手に手錠をぶらさげたまま、鳥居を通過して積乱雲の頂上へ、「昇天」すべきだっただろう。

というのもヒロインが人柱であるなら、彼女が地上に再臨するためには、「過去に例のない何か」が、積乱雲の頂上で勃発するべきであるからである。

その何かについていえば、「水」と「気」に対し、「火」と「鉄」を持ち込むことは、問答無用のメタファーとして働いていたことであろう。

端的にいって、ヒロインを積乱雲の生態系に飲み込み、迎え入れようとする竜(?)なりなんなりを、主人公が拳銃で撃って、吹っ飛ばし、退けてしまえばいい。

過去何百年(作中の神社の天井画にちなんで)において、そのように個人の都合において、雲上という神聖な場で、火と鉄を行使した人間などいないはずだからだ。

そしてそのような行いをしたからこそ、「天の気の焦点」が、その時点で、ヒロインから主人公へと移行するのである。
結論を先取りしていえば、この瞬間、ハレにしてアカシ(明かし)の子である「晴れ女」のヒロインに対し、主人公が、竜殺しという世界中で見られる神話的行為の結果、ケガレにしてクラシ(暗し)の「雨男」の主人公になればいいのである。

4 手錠
これをわざわざ主人公の手にかけるなら、その意義をはっきりさせるべきであろう。
まず主人公が鳥居へ向かう際、その一方の手に手錠がぶらさがっている。
当然ながら片方の環は主人公の手首につながれていて「閉じている」のだが、ぶらさげているほうのもう片方の環は、「開かれている」べきだろう。
なぜなら、その手錠こそが主人公が振り払い、駆け出してのち背後に置き捨てた全てのメタファーであるのだから。

要は、「主人公は今こそ全てから解放されたのだ」ということを端的に示すものとして使うのであれば、もう片方の環は閉じずにいる状態であるほうが、よろしいのではないかということだ。

そして、「捨てた世界」の代わりに主人公が、何をおのれにつなぎ止めたいのかと言えば、ヒロインしかいないわけである。

なので、ここでも「鉄の行使」といわんばかりに、主人公が拳銃で竜なりなんなりを退けてのち、主人公とヒロインの両手首をつなぐものとして手錠を使えばいい。
主人公が、ヒロインの手を握り続けられず放してしまうシーンで、えいやとヒロインの手首に、開かれたままおのれの腕にぶら下がっている手錠をはめればいい。

そのような手段で、人柱となった者を、再び地上に再臨させた者はいない、というようなニュアンスもそこはかとなくエクスキューズできるのではないか。

鳥居のもとで、地上に戻った主人公とヒロインがともに横たわるとき、互いの手首が手錠で結ばれていることは、まったくもって「個人的な趣味」に合致する。ヤー。


5 島
物語の変転として、東京全域および日本全国が雨にまみれるわけだが、その必要はないだろう。
主人公が、忌視した島にのみ、雨が降ればいい。
つまり、ヒロインは地上に戻った時点で、「晴れ女」の力を失っているが、代わりに、主人公が「雨男」の力をもって再臨したわけである。いわゆる「竜殺し」の祝福であり呪いだ。

主人公が、鬱屈として戻らざるを得なかった島が、三年にわたる雨で滅びに瀕している。そんな中での卒業式となれば、主人公の暗い思いが増長するわけで、しかもそのことで主人公がヒロインと同じく、「代償をどうしようもない」という状況に陥っていればよい。

またこの主人公に対比させるのであれば、終盤の主人公のシーンは、全てヒロインが受けるものにする必要がある。

「世界の形を変えたのがお前らだって?」「思い上がるな」と言われるのも、ヒロインである。
おばあちゃんから、「元に戻っただけ」(主人公の雨男の力の範囲を要考)と言われるのも、ヒロインである。
そのヒロインが、自分のせいで保護観察処分になってしまった主人公に会いに行くにも行けない、という、主人公・ヒロインの逆転を描くべきだろう。

6 主人公とヒロインの変転
主人公が抱えているテーマは鬱屈であり、解放を望んで逃げ場を求める行為であり、逃げ場がないときに暴発してしまう悲劇である。
エンターテインメントを志す人間なら、たいていはこういう気分に襲われて、何かを作るものだろう。何よりその点で、大いに共感させられる作品でありました。

で、ラストでは、ヒロインはとっくに晴れ女の力を失っているべきである。ここは本作と変わらない。
だが代わりに、主人公が雨男になっているべきではないか。
最後に「会う」と決断すべきは、ヒロインの方でいいのではないか。

雨男となってのち、晴れて(ちっとも晴れないが)島を出ることがかなうが、気分はどんよりしたままの主人公のもとを、ヒロインが訪れ、最後にこう問うてはどうだろう。

「晴れてほしい?」
と。

ここで主人公がうなずくことで、物語の変転が描かれる。
ヒロインの力に頼っていっときの避難所を得るのではなく、主人公自身が、その鬱屈した心を解き放ち、おのれ自身のハレにしてアカシを望むことが示唆されるからである。

そして重要なのは、かつてヒロインに、「晴れなくていい」と告げた主人公と、ちょうど逆の現象が起こるということだ。
主人公は、「もう雨は降らなくていい」ということを受け入れる。
そして晴れが訪れる。
個人の願望によるものではない、天然の恵みとしての、真の晴れだ。

晴れ女につづき、雨男となった主人公の力も、こうして完全に失われる。
後に残るのは、自分たちはまぎれもなく天の力にふれた二人だという実感、ただそれだけ。
ハレ(晴)、アカシ(明)、そしてサイワイ(幸)という、神道における三つの理想的なあり方をみせる。

こういうラストはどうだろう。

7 気になり続けた点
晴れ女をヒロインかつ主題にするのであれば、主人公を雨男にするべきではないかと、序盤から延々と思い続けていたところに、「なんでもかんでも対比させたがる」自分の悪癖が顔を覗かせ続けた130分でありました。(その間、とてもわくわくして感動し続けていた)

なので、序盤はラストにある、雨が延々と降り続く島という不思議な場所から始まるのがよいのではないか。その雨をもたらしているのが一人の男であり、「自分がどうして100%の雨男になったか」を語る物語としてスタートしてもいいのではないか。

最後の最後でそれが逆転し、雨も晴れも結局のところ、天の気に委ねることになるが、人はその傘の下で生きていく、という感じで終わらせるとどうだろう。

というような気分が盛り上がり、このような「落書き」に落ち着いた次第。

落書きであるので、それ以上の意味はなく、あの素晴らしい作品にふれた方々が、事後に楽しむ余興の一つとして読んで頂ければ幸い。

そんな余興は要らぬという方は、こんなものを読まずに、あるいは読んだ記憶を消して、あの作品を無心に再見すればいいだけのことだ。

蛇足。
個人的にお気に入りのシーンは、買い物袋をぶら下げた主人公が、「大人の男女」の後を追っていくところ。
少年が必死になって未知の世界に首を突っ込もうとする姿は、いつだって感動的で、それだけで物語の始まりを感じさせられて、強烈にわくわくさせられる。


以上。


2019年3月2日土曜日

【コンテスト】
第2回冲方塾(小説部門)最終選考結果と冲方氏による総評・講評をカクヨムにて公開しました。
https://kakuyomu.jp/contests/ubukata_juku_contest

というわけで、長らくかかりましたが、講評等がようやくアップされたもよう。

今後、小説部門においては、主に早川書房さんとともに受賞者の方々と向き合って参ります。
皆さんと一緒に、小説トレーニングを行う企画も準備中です。

ひとえに研鑽あるのみ!


2018年7月31日火曜日

本日のあとがき

北極から帰り、絶対的な虚無の氷原を懐かしく思いながらも、旅行記はさておいて執筆に邁進でやんす。まさかここまで〆切が連打になるとは思わず、ひいひい呻きながらも、どうにかなりました。

年のせいか、自分が書いたものをしばしば忘れるようになったので備忘録的にあとがきを書くことにします。


1)『アクティベイター第6回』
行動派で人情に弱い不器用な男と、頭脳派で怜悧で不器用な男。
本来であれば相容れなかったはずの二人の男が、亡き女性を介して義兄弟となり、巨悪と難事件に挑む……という大好物な人物造形に、いつの間にかなっていました。
ミリタリー設定はからっきし弱いので、専門の方(素晴らしく素敵な本職の方々をご紹介いただくことができて大感謝!)に助力を仰ぎ、単行本にまとめる際、そのときの最新情報に即して修正する予定です。
今話は、8月売り「小説すばる」に掲載。
(「〇月号」と「〇月売」と「〇月〇日と配本」のズレとか、だんだん分からなくなってきます。間違ってたら後で直します)


2)『剣樹抄 第4回』
前話は、吉原の花道で「外八文字」を考案したお勝さんと、歌舞伎の題材にもなった旗本奴・水野十郎、ならびに町奴・幡随院長兵衛に、ご登場を頂きました。
今回は、お相撲さんがテーマです。
「初代横綱」として力士碑に名を刻まれた方が、ご登場。
そして当時、江戸一番の怪力として知られたもう一人の方も、ご登場。
水戸光國が青春を送った江戸初期は、身分の上下にかかわらず、あっちもこっちも天才的な規格外の人達ばかり。まるで、びっくり箱みたいな時代ですね。
ちなみに、江戸初期の相撲は、殴るわ、蹴るわ、しかも関節技もありだわ、総合格闘技みたいな武芸だったようです。
巨漢たちと対峙する、光國と「くじり剣法」の了助の活躍をお楽しみ下さい。
こちらは、8月売り「オール讀物」に掲載。


3)『十二人の死にたいこどもたち』文庫版・改稿(初稿)
ちょっと予定外に改稿スケジュールがぶっ込まれて、これは北極なんかに行く作家にはそのあと何が起こるか思い知らせてやろうということでしょうか。
まあ、行く前から言われてはいたのですが。
以前、公式Twitterアカウントでもつぶやきましたが、目次からして修正するというのは、冲方作品には割と珍しい改稿。
コミック版(画・熊倉さん)のクォリティの高さに負けないよう、しっかり磨きをかけて参りますので、ぜひお手にとってみて下さい。
十月発売予定です。


4)『麒麟児』単行本・改稿(初稿)
前半はほぼほぼ書き直しました。もともと予告編を二つも出した上に、明治150年記念に合わせて、どんどこ進めた連載でしたので、かなり重複するところもあり、ごっそり加筆修正。ようやくすっきりまとまりました。
戦火を防ぐため、むしろ何もかもを焼き払う覚悟で、ギリギリの対峙へと赴く二人の麒麟児のぶつかり合いをお楽しみ下さい。
十月発売予定です。


5)『月と日の后 第6話』
いよいよ藤原氏のドロっドロした歴史に突入。
とある席で、「今、中宮彰子を主人公にして書いております」と話したら、『はなとゆめ』の読者の方から、
「あなたは行成(裏切り者)か!」
と叫ばれてしまいました。
割と多い反応ですが、彰子も彰子で大変な人生です。彰子14歳。定子の産んだ皇子を養育しろと言われ、呆然としながらも皇子のために奮起するあまり、藤原氏が秘めた禁断の歴史の扉を開けてしまう彰子をお楽しみ下さい。


6)アニメ『蒼穹のファフナー』
着々と進行中。8月はイベントですね。聞くところによればカノンがいなくなった日に合わせてきたとか。生誕祭以外も押さえにきたということでしょうか。詳細は公式を待て。


こう言っては何ですが、二週間ほど消えた割には、真面目に仕事をしていますよ。そうは思いませんか。そろそろ失踪していいですか。


7)『マルドゥック・アノニマス 第22回』
これから書きます!
バロット+ウフコックVSハンター陣営、引き続き大盛り上がりの巻。



2018年7月10日火曜日

北極航路1

途方もなく広く、凍てつく海。
圧倒的な酷薄の美が、生命を限りなく際立たせている。
一切の虚構が消え失せ、むしろ何もかもが幻想のようだ。

というわけで北極に行ってきました。
執筆の合間に、こつこつ楽しんでアップしようと思います。
まずはハイライトを掲載。



ロシアの原子力砕氷船「50レットポビディー号」。
英訳は「50 Years Victory」。
第二次世界大戦での勝利50周年を記念し、造られた船であるそうな。
勝った相手は主にドイツだが、乗客にはドイツ人がおり、多くの日用品がドイツ製品であった。そのことに歴史を感じる。



白夜の蒼穹に昇る陽。
くっきりと浮かび上がる影の背後へ、それまで自分がいた場所が限りなく遠ざかる。
「旅」の思いが消え、心が未知の生活へ備える。



白く、ただ白い。
青ざめた白さだけが広がる氷原が、かつて数多の冒険家をいざなった無数の幻想を生み出した。



北極の王、ポーラーベア。
シロクマ、あるいは北極熊。
凍てつく海の上を、我が物顔で歩む、ゆいいつの獣。
彼らが闊歩するため、北極の鳥たちは今も飛び続けねばならず、アザラシたちは氷上に出るだけで命がけだ。
どちらも、南極で安息の地を得たペンギンやアザラシたちがさぞ羨ましいだろう。

ちなみにシロクマの肌は黒い。
毛を剃るとクロクマになる。
(※クマは超望遠でないと上手く撮影できないため、写真を分けてもらいました。Thank you!!)



分厚い氷を粉砕し、人々を難なく北極に運ぶ。
現在、北極点にまで確実に辿り着けるゆいいつの砕氷船らしい。
過去、百何十隻という船が北極を目指し、そのすべての経験知が、この一隻に集約されている。
乗船中は、人類の強さがいかなるものか、絶えず体感させられた。




江戸時代のコンパスの大人気ぶりを見よ。
おかげで様々な国の人たちと楽しく賑わえたことを大いに感謝します。
その針のご明察ぶりは後日ご紹介。



そして北極点到達につぐ、もう一つのメインイベント。
北極海へダイブ。
乗船した各国の乗客が、口をそろえて「Crazy!」と叫ぶ。
叫びながら、水着姿で次々に飛び込む。
未知への冒険は、かくして万人の娯楽となる。
苦難がもたらす知恵の果てに、遊び戯れる人間を讃えよ。
人間を生かさしめる摂理を讃えよ。


というわけで、大いにはしゃいだ。
飛び込んだあと、飲んでいるのはウォッカ。
寒中水泳を経験された方ならお分かりだろうが、「死」を感じるほどの冷たさに凍えた直後、体の内側から猛烈な熱が発せられる。体が生きようとして発熱するのだ。
自分に与えられた「生」を、手触りで感じられる瞬間でありました。




旅の体験は、やがてインスピレーションとともに執筆の体験へ。
そのときを楽しみに待ちつつ、今の執筆に励まねば。

つづく。

2018年6月23日土曜日

【デビュー22年目の夏休み】

技術が蓄えられ、知識が増えると、技術や知識だけで書いてしまうようになる。
知らず知らずのうちに、だんだんと感性に欠けた執筆になってしまうことが、一番怖い。
感性が豊かに「みえる」文章を書いてしまってはよくない。
技術と知識があれば、ある程度、それっぽく書けてしまう。
ここ数年、それがずっと懸念材料であった。

筆力がつけばつくほど、それに頼るせいで、自分本来の感性が置き去りにされてしまうということがある。
感性を発揮し続けるには、感性を刺激せねばならない。
そのためには、未知の体験を己にぶつけてやるのが一番いい。
未知でいながら、心のどこかで希求していたことであれば、なおいい。
しかもそれが、二度とないくらいの体験であるなら言うことなしである。

そんなわけでデビュー22年目にして、初の本格的な夏休みをとることにした。
ちなみに連載原稿は五本とも終わらせた。
いまどき、旅をしながらでも原稿のやり取りができるではないか、無理に前倒しで仕事を片付けることもない、と思うむきもあろう。
ノー。
電波すらまともに届かないフルデジタルデトックスな環境こそ、感性を磨くにふさわしい。

そんなわけで。
北極に行くことにした。



ここだ。
北極海を越えて、この、北極点に立つ。
地球上最強の避暑地の一つといっていいだろう。
蒸し蒸しした梅雨時の日本から脱出する先としては最高の地に違いない。

そこは、全ての方角が南になる場所だ。
一休さん的にいう真の浄土、すなわち「みな身にある」場所の対局だ。
フェストゥム的な決戦の地だ。
そして、究極の北極出地だ。

おお、そうだとも。『天地明察』的にいう、北極出地の究極ではないか。
ならば、以前、対談の際にプレゼントして頂いた、江戸時代に作られたという、あれを持っていくべきではないか。



これだ。
重さ一キロ近くある、数百年前のコンパスだ。

こいつを持って北極点に立てば、全ての方角が南になるゆえ、針がくるくる回り続けるに違いない。
それは、渋川春海さんですら想像だにせぬ、ご明察な回転であるに違いない。

ただそれを見るためだけに。
ただ何もない光景を見るためだけに。
行こう。

いざ北極へ。
いってきます。

2017年7月2日日曜日

シュピーゲル・シリーズ完結



【シュピーゲル・シリーズ完結】
緑の森の マイヤリング
美しい夢は 終わってしまった
『「生」と「死」のウィーン』(著・ロート美恵 講談社現代新書 1991年刊)で紹介されている詩である。
この一冊を読んだのは、シュピーゲル・シリーズの着想を得る以前、おそらく96年にデビューする前のことだろう。以来、長く本棚に置かれ続けた。
確か2003年頃だったと思うが、短編の依頼が来た。それでなぜか再読し、「ミリオポリス」という架空の巨大国際都市をイメージするきっかけを与えてくれた。

端緒は、書の三つの言葉だったと思う。
「美しき亡骸」シエーネ・ライヒ
「亡骸の会食」ライヒエンシュマウス(マオス)
「世紀末」ファン・ド・シエクル

舞台はウィーン。一風変わったものが書ける気がした。
そうしてあるとき、ひと仕事するために喫茶店へ向かった。(当時は、異なる仕事ごとに場所を変え、喫茶店やファミレスを回遊していた。)

歩いていると、ふいに、カチン、とジッポライターの蓋を開く音が、どこからともなく聞こえてきた。
続いて、幾つかのイメージが訪れた。
人生は失望に耐えるだけと割り切る誰かがショートホープを噛むようにくわえている。
ナイフみたいに尖った目つき。不敵な態度。皮肉っぽい様子。
青い空を仰ぎ、にやりと笑みを浮かべて呟く。
「なーんか、世界とか救いてー」

よしよし、書けるぞ、と思った。
土中に埋まった何か大きなものの一部を見つけた気分だ。
あとは、そのイメージを壊さないよう注意しながら掘り出していけばいい。
無事に着想出来ると、そういう思いがわいて、ふっと気が楽になる。
そのときは、これで〆切に間に合わせられそうだ、と考え、安堵した。

それから10数年。
身を振り絞って、彼女ら・彼らの物語を、何冊も書き続けることになろうとは予想もしなかった。
最後の1行に辿り着いたとき、やっと解放されたと考え、安堵した。
最初のイメージが訪れたときと異なるのは、ついでに寂しさもやってきたことだ。
彼女ら・彼らは、物語の向こう側へ旅立っていった。
読者の手へ委ねられ、自分に出来ることは、もう何もなくなった。
「まだか」と問われて困ることもない。
彼女ら・彼らのその先は、読者の皆様のもとに漠然とした予感として訪れるだろう。

結末を見届けて下さった読者に心から感謝を。

書籍は7月1日発売、電子書籍は8月だそうです。
★修正★
↓↓↓↓
書籍は7月1日発売。電子書籍は、「BOOK WALKER」では7月1日配信、他の電子書店では8月1日配信予定だそうです。

なんと、そうだったんだ。