2019年9月15日日曜日


何が今、不自由なのか?

 ずっともやもやし続けていた。いつからか? わからない。
 理由は、だいぶわかってきた。ネットにふれればふれるほど、インスピレーションが奪われていく。その危機感は年々強まっている。
だが、ネットは自由の場、インスピレーションの宝庫であるはずだという考えは拭いがたく、それがただの思い込みであることを認めるのに、けっこうな時間がかかった。

 こうした実感と思い込みの間をしばらく行き来しながら、インスピレーションを求めて北極や砂漠を旅したりもした。究極のデジタルデトックスを通してはっきり実感したのは、やはりネットにインスピレーションを奪われているということだ。

 その間、ほうぼうで専門家やヘビーユーザーの話に耳を傾けてきた。驚かされるのは、ふとした拍子に、みなが似たような「不自由さ」を口にすることだった。

 何が今、不自由なのか?
 自分の実感と、専門家やヘビーユーザーの言葉を整理し、以下にまとめた。

何が不自由なのか?
1時間の浪費
2パーソナライズ(個人仕様)による分断
3無知への不寛容
4全てが数字に換算される
5誰もが最後は孤立する

何がそれらをもたらしているのか?
1デザインされる行動依存
 (スクロール・検索・メッセージの確認)
2環境データの収集
(盗聴・盗撮・行動追跡)
3欲望刺激デザイン
 (つながる・そろえる・競い合う)
4ハブ・パーソナリティの可視化
 (ネットのつながりはきわめて不平等)
5あらゆるものがポルノ化する
 (感情の刺激は正義)

 一つずつ、見ていこう。
  
1時間の浪費
 人気を得るアプリの鉄則は、一分から七分で一つの作業が完結することらしい。そしてこの一分から七分を、何千回も繰り返させるための、あらゆるテクニックが考案されている。
 重要なのは、それらのほぼ全てが、しなくていいことであり、生活に必要ないものだということだ。

2パーソナライズ(個人仕様)による分断
 自動的にパーソナライズされる広告などによって、ふだん見るものが、みな異なるようになっていく。パーソナライズという自分自身の檻に閉じ込められ、共感や一体感に日常的に飢えるようになる。

3無知への不寛容
 無知や誤謬に対し、過剰に厳格になっていく。ネットが情報収集の場であるという意識ゆえだろうと考えられている。
 無知を咎める風潮は、生徒を萎縮させる教育の現場と同様の状態になる。みな賢い振りをし、すでにある知識を盾にすることで、じわじわと自由な発想、知的好奇心、真実への興味を減退させていく。

4全てが数字に換算される
 アクセス数、リツイート数など、数字が大きければ大きいほど良いという価値観を抱かされる。常に数字に従って比較され、評価され、無視される。
 しかも数字は無限であり、きりがない。このストレスから逃れようとして、本来その人にとって価値のある行動ではなく、より多くの数字を得るための行動をとるようになる。

5誰もが最後は孤立する
 大切な相手が目の前にいるのに、どうでもいいメールが気になるといったことが続くと、一人一人が心地好いアイソレーション・タンクに入って外に出てこない、といった精神状態になるらしい。


何がそれらをもたらしているのか?

1デザインされる行動依存(スクロール・検索・メッセージの確認)
 まず、無限にし続けることが出来る何かを用意する。
 そこに、これも無限に新しい何かが雪崩れ込むように設計する。
 そして、違うものが次々に現れることで「幸せのボタン押しモード」になるよう、誘導する。
 幸せのボタンとは、自分の脳の快楽中枢を刺激する電極のボタンを無限に押し続けることであり、行動依存をデザインする上で重要なイメージとなる。

2環境データの収集(盗聴・盗撮・行動追跡)
行動依存を決定づけるのはパーソナライズであり、ユーザーの個人情報の収集は欠かせない。
では今の世界企業は、どのように収集しているか。
①メールやチャットや送受信データはそのまま収集される。利用規約で、「あなたのデータを利用していいか」といったことを理解しづらい文章で尋ね、「はい」を選択させる。
②「環境データ」などと称し、携帯電話の電源が切られた状態でも自動的に周囲の音声、映像、位置情報を自動的に収集するようにしている。しばらく前にもフェイスブックによる盗聴が露見するなど、しばしば問題になる。

余談。 
広告業界の人間に聞いたことだが、ある商品を話題にしていると、勝手に自分のフェイスブックやインスタのタイムラインにその商品の広告が出てくる、ということがあったらしい。
試しに、全員の携帯電話がオフであることを確認した上で、英語、日本語、中国語で同じ商品について話したが、やはりどの言語でも同様の結果となったという。とてつもない精度である。

3欲望刺激デザイン(つながる・そろえる・競い合う)
 行動依存における中毒性を高めるには、欲望の刺激も欠かせない。
 足らないものを埋め合わせたいというのが、人間の欲望である。
 つながること、コンプリートを目指させる商品、そして競い合わせること。
 これら全てが、「自分には何かが不足している」という気分を誘発する。

4ハブ・パーソナリティの可視化(ネットのつながりはきわめて不平等)
 アクセス数やいいね数などは、分布を可視化する。多くが「べき分布」に従うことがわかっている。
 つまり、線路と駅のように、ごく僅かなターミナルに集中し、そこから拡散する。
 その僅かな駅の奪い合いが、ネットで行われていることの大半である。

5あらゆるものがポルノ化する(感情の刺激は正義)
 性欲のように食欲を刺激するフードポルノ(飯テロ)が、不適切な欲望の刺激として問題視されたのも束の間、むしろ刺激することの正義にすり替わってしまった。
 同様のものに、煽りポルノ、反戦ポルノ、感動ポルノ、自己啓発ポルノ、ノウハウポルノ、投資ポルノ、ビーガンポルノ、健康ポルノ、ダイエットポルノ、筋トレポルノ、夢追いポルノ、恋愛ポルノなどがある。
いずれも感情を刺激することだけが目的であり、成功に導くことはしない。むしろ失敗し続ける人ほど、ポルノにふれ続けたいという気持ちを高める。
発信する側にとって重要なのは、本格的に失敗する人間と無関係でいることだ。
たとえば筋トレにおけるステロイド剤の流行によって統合失調症患者が生まれても、責任を取らずに済むように。

というわけで。
ネットが自由な発想とインスピレーションを与えてくれるものだという期待は、完全に潰えた。
むしろ、事務連絡と知識の収集に便利だというだけで、いつの間にか魂を食われる。

知らぬ間に、この自分もまた、ものごとを数字に置き換え、常に得体の知れないストレスを感じ、賢いかのように振る舞い、どうでもいいメッセージが気になってしまう、という状態であることが、はっきりした。
売れるものを書こうとした経験などまったくなく、それよりも日々、鮮烈に訪れるインスピレーションのほうがはるかに生きがいである人間にとっては、非常事態だ。

まず、一切をどこまで退けられるか、やってみたい。
ブログの更新をやめる。ツイッターは担当に任せ、たまに面白いことを考えついたらやる。余計なアプリは全て削除する。
こう書くと簡単そうだが、実際はとてつもなく面倒だ。

フェイスブックなどは何度退会しようとも、恐ろしいことにちょっとした操作でアカウントを復活させられる。Cortanaをタスクマネージャーで消すと、Cortana(2)が出現してメモリを食い続けるのと同じで、軽いホラーだ。
GMailを削除することのなんと面倒なことか。
やっとのことでアプリを削除しても、うっかりするとバックアップ時に全復活する。フォルダに閉じ込めて封印し、見ないようにしておくしかない。
 
 何より、結局はコンピュータも携帯電話もタブレットも、なくては仕事ができない。

この恐ろしい世界で、死ぬまで創作の火を絶やさず、幸せな反吐にまみれていたいという願いのもと、可能な限りのデジタル・ディフェンスをはかる所存。
アデュー。




2019年8月26日月曜日

 今、個人的に最も無視できないものの一つに、persuadable、という言葉がある。
 説得できる人。
 インターネット上で特定の感情を刺激されると、態度と行動を変化させる人々のことだ。changeable、すなわち変更可能者ともいえる。
 電子的メッセージや動画や楽曲の刺激だけで影響を受け、思い通りに動かせることから、persuadable voter(説得できる有権者)として、英米の選挙キャンペーンで最重要ターゲットとされた人々である。
 そして現在、これはフェイクニュースの標的となる人々と同義である。

    2016年のアメリカ大統領選では、選挙利用を目的として、多数の個人データがフェイスブックから流出した
 トランプ陣営に起用されたイギリスのケンブリッジ・アナリティカ社がそのデータ分析を担い、persuadableを抽出した上で、かつてないほど正確で効果的な人心操作手法であるマイクロターゲティングを確立した。
 その効果を疑問視する専門家もいるが、現実にマイクロターゲティングは驚くべき「実績」を誇っている。イギリスのEU離脱を問う選挙のキャンペーンなどだ。
 また、ケンブリッジ・アナリティカ社の親会社であるSCLグループは、紛争地域での選挙管理・情報戦術を行っており、その技術の有効性は実証済みで、マイクロターゲティングの確立に寄与している。

フェイスブックなどによる膨大な個人データの収集、AIによる分析技術の発達、そして軍事的に効果が実証された情報戦術。
 これら三つが合体したことで、インターネットは新たな時代の幕開けを迎えた。
 その開幕を象徴するのが、トランプの勝利と、イギリスのEU離脱選挙、そしておびただしいフェイクニュースだ。
 フェイクニュースは、単に偽情報をばらまくという手法を超えた域に達している。収集された個人データをもとに、どの社会のどの層の人間が、どのようなメッセージを受ければ、どう感情を刺激され、その結果、どのような行動に出るか、という計算のもと、組織的に、多額の予算を投じて作成される。
 請け負うのは、マーケティングのプロ、フリーのクリエイター、どこの誰とも知れない人々だ。誰が何のために流したかを判明させることは困難をきわめる。

 かくのごとき時代を生きる我々は、どうすべきか……という講演をさせて頂く機会が、このところ数度続いた。
 岐阜市におけるデジタルアーカイブにまつわる講演会が、直近の機会であるが、そこで、中日新聞の記者氏と取材を通してお話する機会があり、「くだんの」展覧会において、フェイクニュースに初めてさらされた経験を聞かせて頂いた。

毎年楽しみにしていたのに残念です」
 という書き込みやツイートが突如として発生し、記者は困惑させられたという。
 何しろ展覧会は「三年ごと」に開かれるのだから、と。
「毎年」が「毎回」の誤記であったとしても不自然で、フェイクニュースの一種であることが発信者のミスで辛うじてわかった。だが、それ以外のどの発言が、意図的な炎上の演出を狙ったフェイクニュースか、判別できないという。
 何より、従来のメディアを通して「正しいこと」をいくら発信しても、偽情報や炎上メッセージにかき消され、無為にさせられる、とのことであった。
 メディアの一端を担う記者をして、このように嘆かせる。それがフェイクニュースであり、皮肉なことに過去の国家的な情報統制と、よく似ている。ただしフェイクニュースは、過去にない速度、少人数、低コストで効果を発揮し、かつ他国の政情不安を狙うという点で、過去の権力追随型のメディアとは異なる。

 そうしたフェイクニュースの効果は、主に二点だ。
 第一に、正しい情報を、偽情報で上書きしてしまう。
 第二に、注目されている話題であるかのように錯覚させてしまう。
 
 先日このブログでも、反韓反日と慰安婦の像などについて、あえてブラックに書いてみたが、閲覧データからは、それほど注目されない話題であることがはっきりしている。
 日頃の(まあ数ヶ月にいっぺんくらいの)作品告知のほうが、(まあ作品によってではあるが)まだしも注目して頂けている。
 これは、無関心というのではなく、きわめて幸いなことに、このブログのお客様の大多数が「冷静」である証拠だ。
 すでに指摘されているように、慰安婦の像は「不自由」どころか世界に何カ所もある。日本にもある。ロビー活動とセットになっている。日本政府も禁じていない。
 くだんの展覧会での展示は、むしろどこまで人心を刺激したら問題化するか試みるような、表現のチキンレースになってしまった点が問題だ。それは自由の訴求ではない。いたずらに人心を刺激すれば、逆にその後の表現の制約が増大してしまう。
 以前にも慰安婦の像が拒まれた例がある。アメリカの大学だ。「人種間・民族間の緊張を高めることになる」とされたが、これも禁じてはいない。「建てるなら他にふさわしいところがある」と言っているだけだ。
 なんであれ、日韓の対立を象徴するような事件ととらえるようなことではないだろう。

 それよりも重要なことは、過去、日韓の緊張は様々な努力によって緩和されてきたという事実だ。
 四半世紀ほど前は、「韓国人が日本の番組を視聴している」というだけで話題となった。それほど断絶し、深刻な対立が存在していたわけだ。
 北朝鮮などは、あまりにも情報が外に出てこず、「国民が幸せに暮らすユートピア国家かもしれない」と考えられていたほどだ。
 
 今の日韓関係は、その頃に比べ、ずっと成熟している。韓国国内の反日キャンペーンを、早く終わらないかと思いながらじっと我慢する人もいる。不買運動ののぼりを撤去させ、日本人観光客に配慮する韓国の方々もいる。
 また、韓国内での、日本の安倍政権に対するデモが取り沙汰されるが、他方で、文大統領の退陣要求デモも行われている。

 日本政府とて、文大統領というやり手の政治家の手腕をもっぱら静観しており、韓国との国交断絶も辞さず、とはなっていない。
 文大統領は、決して馬鹿ではなく、出世と権力掌握にかけては天才的だ。ドロドロした足の引っ張り合いが行われる国連において事務総長にまでのぼりつめ、その後に韓国の大統領になった。出世の鬼といっていい。支持率と、主目的らしい南北統一のためなら、何もかも破壊する覚悟かもしれない。日本の政治家を目指す若いユーチューバーなどは彼を見習うべきだろう(ここはジョークだ。ジョークのままであってほしい)。

 そしてトランプ大統領もそうだが、文大統領のような人物がキャンペーンを繰り広げるとき、噴き出すのがフェイクニュースである。
 たとえば現在、韓国人の十代・二十代に不買運動を広げようという意図で、ツイッターなどを通して発信される文言だが、目標が皆目不明である。
「日本人に怨みはないが安倍政権は許せない。抗議のために日本製品を買わない。日本の利益になることをやめる。ボールペンなど日本製品は品質が良いがあえて我慢する。」
 その最終目標は?
 韓国で行われている不買運動は、誰にでもできるが、実はかなり難易度の高いサボタージュだ。
 当然ながら自国の経済を犠牲にする。小売店が潰れれば就職先も減る。自国にダメージをもたらす一方、よほどの規模にならない限り、日本の政策に影響を与えない。
 それほどのことをして、日本政府に何をさせたいのかが不明である。「日本の謝罪」など、抽象的すぎて無目標と同じだ。これでは、いつサボタージュを終わらせればいいかもわからない。
 そもそもサボタージュは独立運動に近しい闘争だ。いったい何から独立するというのか。品質の良いボールペンを自分たちで造れるようになるのが目的になってしまう。サボタージュなどせず、普通に製品開発に努めればいい。

 こうなると、日韓関係の悪化そのものが狙いであると考えたほうが合理的だ。
 そのために、韓国内のpersuadableを狙い撃ちするフェイクニュースが拡散されている可能性はないだろうか?

 そうしたフェイクニュースを作成しているのが日本人や韓国人とは限らない。世界には、フェイクニュースを作成することで報酬を得る人間や企業が存在する。
 報酬をもらって、翻訳ソフトを駆使し、行ったこともない国をターゲットにする。
 様々な人間を称揚したり貶めたりするコンテンツを作成し、フェイスブック、ユーチューブ、Instagram、ツイッターなど、考えつく限りのネット媒体に送り込むことを、生業としているのである。

 たとえば「アメリカの黒人の新たな運動」というメッセージで運動を組織する一方、「黒人を取り締まる警察を応援する」というメッセージが出現した例がある。
 どちらも、アメリカの分裂を目的とした、ロシアの工作だったことが判明している。

 かつて中国政府の一部機関は(今でもそうかもしれないが)、一アクションにつき数十円の報酬をネットユーザーに支払い、中国を称賛するメッセージをばらまかせた。何百万件、もしかすると何億件ものプロパガンダが世界に発信されたわけだ。
 中国政府が検閲強化によってグーグルなどを追い出すのは、自分たちの手でネット検索の仕組みを作り、国内外に広めたいからだ。フェイクニュースの効果を知っており、それを自分たちが有効利用できるようにするための政策とみなすこともできる。
 また最近では、上記のケンブリッジ・アナリティカ社と同様の個人データ収集を、Rankwaveという韓国の企業が行おうとして問題になっている。
 香港のデモを巡るフェイクニュースについては、ツイッターなどでアカウントの削除が進められているが、いたちごっこの様相だ。
 他方、フェイスブック、グーグル、Amazon、アップルをはじめとするネットインフラ企業は、数十億人の個人データを売買することで、多額の利益を上げている。
 個人に最適化される「つながりや広告」を止めることは、ますます不可能になり、そしてそのインフラが、フェイクニュースに利用される。

 日本では、いまだに「一部の粘着気質の人間が愉快犯的にやっていること」とみなされがちのフェイクニュースであるが、現実は違う。
 世界規模のビジネスであり、ターゲットとなる国を変貌させる力を持ち、二つの大きな特徴がある。

 一つ、選挙など民主的プロセスを操作し、利権の確保や相手勢力の分断といった目的のために行われること。
 一つ、背景には相応の資金を持つ個人や組織が存在すること。

 たとえばナイジェリアでは、グッドラック氏という大富豪が、先述のケンブリッジ・アナリティカ社を雇い、大統領選に影響を与えようとした。あらゆるフェイクニュースを流し、対抗馬を潰そうとしたが、結局は選挙で負けた。フェイクニュースを流したスタッフは、そのことが露見すると危険な目に遭うので、国外へ逃げたという。

 そうしたフェイクニュースは、あからさまなプロパガンダ記事であるとは限らない。
 国民の一人を偽装し、純朴な意見を装って発信されることもある。
 カッコイイ、ダンス動画によって、いつの間にか刺激されていることもある。
 存在しないトークショーの一部を見て、そのような番組が存在すると信じ、架空の議論を印象づけられる場合もある。
 愛らしい動物たちの癒やし動画、面白動画、一コママンガ、大切りコンテンツ、知識層の啓蒙動画かと思いきや、気づかぬうちに特定の感情を助長される場合もある。
 これらは、過去の映画、テレビ番組、広告、文学など、あらゆる手法を網羅した、きわめて洗練されたコンテンツだ。しかも、「この辺りの層を狙い撃ちにすると効果的だ」というマーケティングに基づいて、様々なSNS上で流される。

 感情を刺激するものを目にさせる手法を防ぐ手だてなど、表現の規制以外になく、それとて、いたちごっこになるだけだ。もしフェイクニュース対策として表現規制を持ち出されれば、本当に打撃を受けるのは、従来のメディアである。
 このように、あらゆるメディアも太刀打ちが困難な、伝播力と破壊力を持った、情報の汚染。
 それがフェイクニュースであり、二十一世紀の戦場に投下される武器だ。
 かつてヴェトナム戦争で枯れ葉剤がまき散らされたように、政治・経済の衝突の狭間で投下されるフェイクニュースは、長期にわたり除去が困難な毒素として効果を発揮し続けるだろう。
 日本では、「日本語」という翻訳困難な言語の壁が防壁となっていたのかもしれないが、いつまでも安心していられるとは限らない。むしろ一連の日韓問題においては、日本でもフェイクニュース・ウォーが始っているとみるべきではないだろうか。

 フェイクニュースによって究極的には何が起こるか?
 何が正しくて、何が間違っているか、何が本当の話題であったか、わからないことが日常となる
 因果関係が不明のため歴史の記述が不可能になる。
 そして、「よくわからないまま社会がこうなったが、それが良いことかどうかもわからない」という、過去から続くはずの歴史的意義と分断された社会が出現する。
 未来を暗澹たるものにしないためにも、効果的なフェイクニュース対策が考案される必要がある。「正しいニュース」を提供しうる企業の役割は、これまでになく重要だ。
 個々人においては、いたずらに自分の感情にとらわれるのではなく、ものごとの意味を確かめ、背景にあるものを把握しようとする態度が必要となる。
 そして娯楽においては、そうした態度を保つよう促すことが、何よりも要求されるようになるだろう。


2019年8月23日金曜日

日韓の軍事情報包括保護協定(GSOMIA)の破棄
https://www.yomiuri.co.jp/world/20190822-OYT1T50247/


歴史的な事件として記録されるかもしれない出来事が起こると、個人的には常にこのように考える癖がある。
「もし自分が150年後の人間で、この出来事を、例えば学校のレポートの課題として調べた立場だとしたら、何が見えるか?」

あくまで仮想の話だが、150年後には世界が統一されていて、国境など存在せず、「通貨がバラバラだったって何それ馬鹿?」みたいな世界に生まれ、過去の歴史を勉強している立場だったとしたら……今の出来事をどう見るだろう? という視点である。

例えば……かつて日本に戦国の時代があり、くそ狭い地域同士で死に物狂いの争いを繰り広げ、埼玉県と群馬県が全面戦争をする、みたいな下らないことに猛々しく愚かで素敵な人智の限りを繰り広げていた頃のことを、学習する、という気分でニュースを見る。

あくまで個人的な気分だが、もし自分が150年後の高校生で歴史を学んでいるとしたら、「あーあ、もし日中朝台で統一経済圏を作れていたら、世界最強だったのにね」が第一印象だ。

インドVSパキスタンをも呑み込み、東北・東・南・南東アジア全土が、この経済圏に従わねばならなくなる。さらにはオーストラリア、中東、東欧もこの影響を受けるし、ロシアなど太刀打ちするすべとてない。
モンゴル帝国なみの世界的な『何か』になっていたはずだ。欧米はこの経済圏に従属する存在になっていただろう。

もちろん欧米、とりわけアメリカはそんなことをよく知っているし、そうさせないための最も単純な手法も知っている。「隣国は仲が悪い」法則だ。隣り合ったコミュニティは競争意識によって互いを敵視する。それが大国だろうと、埼玉県の東武線と西武線だろうと、変わりはない。20世紀までのフランスとドイツみたいに、「自分はあいつとは違う」という気分だけで、とことん互いを攻撃し合う。

この気分を大いに利用したのが、ヨーロッパ諸国によるアフリカの植民地政策だ。ある地域に、わざと教義の異なるキリスト教を布教させたり、異なる宗教観の争いを助長させたり、外見はまったく同じだが「出自が違う部族」それぞれに証明書を発行して強調したりし、ほんの僅かな違いを理由にして、誰もが争い合う状況を作り出した。
いわゆる「分割統治」の手法である。

そもそも朝鮮半島の「分断に成功」したのは、もっぱらアメリカだ。

そして日本列島に根を生やし続けているのも、アメリカだ。かつてヨーロッパ勢は、日本が金の産出国でなくなった時点で(さんざん金銀の為替を利用して奪い尽くしたので)、オワコン扱いし、どうでもいいとみなした。
だがアメリカが進出するので、じゃあ我々もと言う気分で日本に来た。これが黒船到来前後の時代だ。
アメリカがどこまで先を見越して日本列島に根を伸ばしたかは疑問だが、21世紀においては結果的に、「中朝台露」のどこも太平洋側に出ることができない、巨大な防波堤としての列島支配に成功した。
アジアにおける、大いなる「分割統治」の変形バリエーションを成し遂げたわけだ。

ロシアなどは、アメリカの進出を防がねばならないため、いまだに日本の北方領土を事実上占拠しているほどだ。本当は全然いらない、役に立たない地域なのに、捨てようにも捨てられない。捨てたらアメリカが軍事基地を作ってしまうのだから当然だろう。ロシアも大変だ。

なんであれ日中朝台は、バラバラにされたのだが、ここに来て中が巻き返しをはかった。
まず、アメリカにどっしり根を下ろされた、太平洋進出の障壁である「日」に焦点を当て、理性と感情の全てに訴えて、「この壁を破壊しろ」という政治的メッセージを、自分たちの政治的利益になるようにした。
「反日を唱えれば選挙の票が稼げる仕組み」を作ったのも、その一つだ。

どこまで意図的であったかはさておき、結果的にそういうことになった。
太平洋側に出る際の巨大な「蓋」である日本列島に、民衆の破壊的な気分を一直線に向けるための、文脈作りをとことんやったのだ。

韓国における、「慰安婦」の「少女」の「像」などは、そのバリエーションである。
個人的には、なんだその被害者を無視したポルノ表現は、と別の憤りを感じるのだが、効果絶大であることは確かだ。こんな表現を目にしたら、たいていの人間は感情的になる。
「自分も少女の慰安婦が一人ほしい!」
とか、
「そんな刺激的な像があるなら見たい!」
などとは口が裂けても言えないので、「そんなことは許せない」という気分を自動的に刺激され、思わず公言せざるを得なくなる。「自分はそんな悲劇をとことん否定するまっとうな人間です」と言い放つ以外に、選択肢がなくなるのだ。並のコマーシャルよりよっぽどよくできている。
そして、気づけばよくわからない感情的な騒ぎに巻き込まれる。
「言葉による誘導装置」としては、古今東西まれに見る完成度だ。誰がこの「慰安婦」「少女」「像」を合体させるアイディアを思いついたかはともかく、人心刺激ワードとして歴史に残るだろう。

それはともかく、自分は今、150年後の高校生なので細かい過程をさっぴくが、つまるところ「日韓分断」は「中」による巻き返しである。
背後に「北」がいるわけがない。「日」の背後には「米」がおり、「韓」の背後には「中」と、そして反米の影には常に「露」がいる。
自分を未来に置き、現在を過去とみなせば、そうした単純な構造だけが浮かび上がる。他に利益を享受しうる主体が存在しないのだから。

韓国人の大半は、反日ではない。はっきり言って、儲かるならどうでもいい、が多くの彼らの本音だ。
日本人の大半が、反韓ではない。正直なところ、あっちの美容と芸能人以外は興味ない、が多くの日本人の本音だ。

本来の姿を見るにつけ、こんなにも平和な隣国関係があるだろうか?

自分たち以外の何かの都合によって作り出された、分割統治の手法を、もろに受けているだけで、かつてのヴェトナムを筆頭とする、東南アジア諸国そっくりだ。

「中」は、「朝」「日」の併呑を望んでいる。世界最強の経済圏を作れるのだから当たり前だ。
「米」は、「中」「露」を封じ込めるために、「朝」「日」「台」を常に分割させ、調停者という立場でどの国も自分のために役だって欲しい。とりわけ昨今は「中」を大きく育たせないために必要な手なのだから、これも当然だ。

そして、もし、ここで「中」が、「北」「韓」すなわち「朝」を併呑し、いよいよ太平洋の障壁である列島「日」の突破に焦点を合わせたとき、どうなるか?

日本列島が21世紀のヴェトナム戦争の舞台にならないことを切に願うしかない。

だが、もしそうなったら?
歴史的な推進力が、かつて平和だった場所へ、激しい変化を要求することだろう。

投資家ジム・ロジャースいわく。
もし自分が十代の日本人なら、カラシニコフを買う、と。

そういう現実が、自分たちではない誰かの都合で、訪れるかもしれない。

結局のところ、「反日反韓」の力学を要請しているのは、日でも韓でもない。
それ以外の国だ。
東西の大国たちによる、おびただしい国内外の政治的圧力とフェイクニュースと民心の迷走によって翻弄させられ、自ら国内外に亀裂を走らせた、東アジアの可哀想なちっさい国たち。

日も韓も、このまま感情だけで突っ走るならば、早くも150年後には、そのように評価されることになるだろう。


2019年7月24日水曜日


ネタバレを望まぬ者、読むべからず

『天気の子』を拝見して思うところを書きたい。

その前に、肝心要のお断りを述べたい。

これは、とても素晴らしい作品であると感じ、だからこそ色々と想像力を刺激されているがゆえに書かれた文章であって、ディスりたい気持ちなどこれっぽっちもないということをご了承頂きたい。

たとえば漫画家やイラストレーターが、とても素敵な他社のキャラクターと遭遇した結果、「自分だったらこう描く」などと、仕事しろよ、と誰もが言いたくなるであろう絵をほいほい無償で公開することがある。
以下の文章はそれと同様の気分で書いてあるのであり、特段、誰かにもの申したい気分などこれっぽっちもないことをお断りしたい。


というわけで。
『ハウス・ジャック・ビルド』が大変マーベラスであり、『スパイダーマン・ファー・フロム・ホーム』がエキサイティングであり、『トイ・ストーリー4』がエモーショナルであり、そそくさとかつ意気揚々とビールを鯨飲しながら『天気の子』を観劇したところ、まったくもって遜色ないジャパニメーションにわくわくした次第。

序盤、特段に言うこともなく、満足。
 (一点だけ最後まで悩ましかったことはあるが、それは最後に書く。)
中盤、ますます言うこともなく、大満足。

「みんなで逃げる」ことを決めてのちの終盤。
「自分が小説で書くならこうする」という、いつもの気分が勃発し、それがむしろ大変心地好かったので(素晴らしい作品に後からこうすべきと意見を述べるのはそれだけ楽しかったからであって、塗り絵に色を塗るようなものだ)、おおまかなところを下記に述べたい。


さて終盤。

1 ラブホテルという高額な避難所にして一夜の憩いの場と、凍える冷気に耐えねばならないどこかの路上(屋根つき)のシーンの順番と意味を逆にする。
2 ヒロインが主人公に料理を振る舞った際の「ハサミ」の描写。
3 主人公のキーファクターである拳銃。
4 終盤になって強力な意味をもたらす手錠。
5 主人公が戻らざるを得なかった島。
6 「天気の子」というテーマにおける、晴れと雨、アカシとクラシ。主人公とヒロインの立場の変転について。
(7 序盤から妙に気になり続けた点。最後に書くと先述した点である)

これら六点(七点)について、自分ならこう書きたいなあ、という気分に従って書きたい。

1 順番を逆にする。
ラブホテルというものは、昭和映画における、「最後の避難所」である。
その文脈を大いに活用しており、「夜が明けたら出て行かねばならない、いわば絶望を受け入れるための最後の場所」であることが描かれている。そして自分なら、こう描きたいという気持ちが大いに刺激される。

問題は、風雨をしのげるラブホテルのぬくぬくした状況で「晴れてほしいか」と質問され、しかも前段で「命や存在にかかわる」ことを明示された挙げ句、イエスと答える主人公を、もっとこうしたら良いのではないかという点である。

結論から言って、その前のシーンで凍えている描写があるので、順番を逆にし、そこを「晴れてほしいか」と問うシーンにすればいい。

いったんラブホテルに首尾良く入り、有り金をはたいていっときのぬくぬくを得て、ヒロインの悲劇的な告白を主人公が受け入れてのち。
ヒロインを守りたい主人公であるが、金もなくなり、行き場もなくなり、ただ屋根のある路上で、三人ともに凍えて寝るしかないそのとき。
極寒がもたらす生命の危機において、意識朦朧とする主人公に、ヒロインが尋ねるのが、「晴れてほしいか」ではどうだろうか。
主人公はヒロインの弟とともに『火垂るの墓』なみに消耗しきり、意識も混濁する状態で、「うん」と言ってしまう。
微笑むヒロイン。
眠りに落ちてしまう主人公。

そして朝が訪れたことに気づき、目覚める主人公と弟。そのもとにのみ届けられている、ヒロインがその存在の最後の名残をかけて残した、か細い日差し。その温もりが、ラブホテルと等しく、あるいはそれ以上に、主人公と弟を生存させたわけである。
だが、彼らの傍らには、ヒロインの抜け殻そのものである衣服があるばかり。

こうすると、終盤、弟が「お前のせい」と主人公を咎めるセリフも、弟の内心では「自分もそれで温もりを得た」という悲しみが上乗せされるので、ますます高揚感が期待できるセリフになるのではないか。

2 ハサミ
ヒロインが主人公に初食事を振る舞うシーンで、鮮やかに振る舞われるのはハサミの描写である。
包丁の代わりにハサミを使うヒロインの「生活力」と、それを身につけねばならない「貧乏くささ」の描写であるといえば、それで完結してしまう。
だがこれを終盤に活かせないだろうか。
というのも、ヒロインは最後の決断によって、「積乱雲の生態系」に自ら赴くことを決めるわけである。
そして積乱雲の頂上に横たわるヒロインに、謎の魚たちが群れ集っているのである。
この魚たちは、何をしているのか? ヒロインを餌だと思って食いたいのか? あるいはヒロインに何かを促しているのか? ヒロインを新たな共存者とみなし守っているのか?

こうした疑問に、ある程度の解答を与えるため(全面的に解答を与えてしまうと、謎の魚の神秘性が失われてしまうので)、ヒロインと地上をつなぐ、細い糸みたいなものがここで描写されるとどうだろう。
そしてまた、ヒロインが積乱雲にのぼってのち、奇妙なことに手にしているものが、ハサミであったらどうだろう。(魚たちが地上からヒロインが使っていたハサミを持ってきてもいい)

もちろん、ここでヒロインがハサミを持っているという必然性を生むためには、彼女が持つハサミに何かの意味(たとえば母親が同じようにハサミでネギを切っていたなど)が必要になるだろう。
なんであれ、ヒロインは魚たちに促されるようにして、自分と地上とをつなぐ、最後の何かを、おのれが手にしたハサミで切り断ってしまう。そのことによって、主人公と弟がいっときの命を得る、というシーンを加えてはどうだろうか。

こう書いてきて、むしろハサミの使用はやや強引な気もしてきたが、ここで意図されるべきは、ヒロインの意志の強さである。彼女の文字通りの「決断」によって、大切な誰かの役に立とうとする態度である。
そしてそれが、主人公を最終的に動かす引き金とならねばならない。

3 拳銃
終盤で放り出すなら、最初から持っていないほうがいい。
警察が彼を追ってくる理由としては、強力すぎる。銃刀法違反である。それだけの重責を主人公に与えるなら、彼の「行き過ぎた願望」に直結すべきではないか。

結論からいって、拳銃を片方の手で握り、もう一方の手に手錠をぶらさげたまま、鳥居を通過して積乱雲の頂上へ、「昇天」すべきだっただろう。

というのもヒロインが人柱であるなら、彼女が地上に再臨するためには、「過去に例のない何か」が、積乱雲の頂上で勃発するべきであるからである。

その何かについていえば、「水」と「気」に対し、「火」と「鉄」を持ち込むことは、問答無用のメタファーとして働いていたことであろう。

端的にいって、ヒロインを積乱雲の生態系に飲み込み、迎え入れようとする竜(?)なりなんなりを、主人公が拳銃で撃って、吹っ飛ばし、退けてしまえばいい。

過去何百年(作中の神社の天井画にちなんで)において、そのように個人の都合において、雲上という神聖な場で、火と鉄を行使した人間などいないはずだからだ。

そしてそのような行いをしたからこそ、「天の気の焦点」が、その時点で、ヒロインから主人公へと移行するのである。
結論を先取りしていえば、この瞬間、ハレにしてアカシ(明かし)の子である「晴れ女」のヒロインに対し、主人公が、竜殺しという世界中で見られる神話的行為の結果、ケガレにしてクラシ(暗し)の「雨男」の主人公になればいいのである。

4 手錠
これをわざわざ主人公の手にかけるなら、その意義をはっきりさせるべきであろう。
まず主人公が鳥居へ向かう際、その一方の手に手錠がぶらさがっている。
当然ながら片方の環は主人公の手首につながれていて「閉じている」のだが、ぶらさげているほうのもう片方の環は、「開かれている」べきだろう。
なぜなら、その手錠こそが主人公が振り払い、駆け出してのち背後に置き捨てた全てのメタファーであるのだから。

要は、「主人公は今こそ全てから解放されたのだ」ということを端的に示すものとして使うのであれば、もう片方の環は閉じずにいる状態であるほうが、よろしいのではないかということだ。

そして、「捨てた世界」の代わりに主人公が、何をおのれにつなぎ止めたいのかと言えば、ヒロインしかいないわけである。

なので、ここでも「鉄の行使」といわんばかりに、主人公が拳銃で竜なりなんなりを退けてのち、主人公とヒロインの両手首をつなぐものとして手錠を使えばいい。
主人公が、ヒロインの手を握り続けられず放してしまうシーンで、えいやとヒロインの手首に、開かれたままおのれの腕にぶら下がっている手錠をはめればいい。

そのような手段で、人柱となった者を、再び地上に再臨させた者はいない、というようなニュアンスもそこはかとなくエクスキューズできるのではないか。

鳥居のもとで、地上に戻った主人公とヒロインがともに横たわるとき、互いの手首が手錠で結ばれていることは、まったくもって「個人的な趣味」に合致する。ヤー。


5 島
物語の変転として、東京全域および日本全国が雨にまみれるわけだが、その必要はないだろう。
主人公が、忌視した島にのみ、雨が降ればいい。
つまり、ヒロインは地上に戻った時点で、「晴れ女」の力を失っているが、代わりに、主人公が「雨男」の力をもって再臨したわけである。いわゆる「竜殺し」の祝福であり呪いだ。

主人公が、鬱屈として戻らざるを得なかった島が、三年にわたる雨で滅びに瀕している。そんな中での卒業式となれば、主人公の暗い思いが増長するわけで、しかもそのことで主人公がヒロインと同じく、「代償をどうしようもない」という状況に陥っていればよい。

またこの主人公に対比させるのであれば、終盤の主人公のシーンは、全てヒロインが受けるものにする必要がある。

「世界の形を変えたのがお前らだって?」「思い上がるな」と言われるのも、ヒロインである。
おばあちゃんから、「元に戻っただけ」(主人公の雨男の力の範囲を要考)と言われるのも、ヒロインである。
そのヒロインが、自分のせいで保護観察処分になってしまった主人公に会いに行くにも行けない、という、主人公・ヒロインの逆転を描くべきだろう。

6 主人公とヒロインの変転
主人公が抱えているテーマは鬱屈であり、解放を望んで逃げ場を求める行為であり、逃げ場がないときに暴発してしまう悲劇である。
エンターテインメントを志す人間なら、たいていはこういう気分に襲われて、何かを作るものだろう。何よりその点で、大いに共感させられる作品でありました。

で、ラストでは、ヒロインはとっくに晴れ女の力を失っているべきである。ここは本作と変わらない。
だが代わりに、主人公が雨男になっているべきではないか。
最後に「会う」と決断すべきは、ヒロインの方でいいのではないか。

雨男となってのち、晴れて(ちっとも晴れないが)島を出ることがかなうが、気分はどんよりしたままの主人公のもとを、ヒロインが訪れ、最後にこう問うてはどうだろう。

「晴れてほしい?」
と。

ここで主人公がうなずくことで、物語の変転が描かれる。
ヒロインの力に頼っていっときの避難所を得るのではなく、主人公自身が、その鬱屈した心を解き放ち、おのれ自身のハレにしてアカシを望むことが示唆されるからである。

そして重要なのは、かつてヒロインに、「晴れなくていい」と告げた主人公と、ちょうど逆の現象が起こるということだ。
主人公は、「もう雨は降らなくていい」ということを受け入れる。
そして晴れが訪れる。
個人の願望によるものではない、天然の恵みとしての、真の晴れだ。

晴れ女につづき、雨男となった主人公の力も、こうして完全に失われる。
後に残るのは、自分たちはまぎれもなく天の力にふれた二人だという実感、ただそれだけ。
ハレ(晴)、アカシ(明)、そしてサイワイ(幸)という、神道における三つの理想的なあり方をみせる。

こういうラストはどうだろう。

7 気になり続けた点
晴れ女をヒロインかつ主題にするのであれば、主人公を雨男にするべきではないかと、序盤から延々と思い続けていたところに、「なんでもかんでも対比させたがる」自分の悪癖が顔を覗かせ続けた130分でありました。(その間、とてもわくわくして感動し続けていた)

なので、序盤はラストにある、雨が延々と降り続く島という不思議な場所から始まるのがよいのではないか。その雨をもたらしているのが一人の男であり、「自分がどうして100%の雨男になったか」を語る物語としてスタートしてもいいのではないか。

最後の最後でそれが逆転し、雨も晴れも結局のところ、天の気に委ねることになるが、人はその傘の下で生きていく、という感じで終わらせるとどうだろう。

というような気分が盛り上がり、このような「落書き」に落ち着いた次第。

落書きであるので、それ以上の意味はなく、あの素晴らしい作品にふれた方々が、事後に楽しむ余興の一つとして読んで頂ければ幸い。

そんな余興は要らぬという方は、こんなものを読まずに、あるいは読んだ記憶を消して、あの作品を無心に再見すればいいだけのことだ。

蛇足。
個人的にお気に入りのシーンは、買い物袋をぶら下げた主人公が、「大人の男女」の後を追っていくところ。
少年が必死になって未知の世界に首を突っ込もうとする姿は、いつだって感動的で、それだけで物語の始まりを感じさせられて、強烈にわくわくさせられる。


以上。


2019年3月2日土曜日

【コンテスト】
第2回冲方塾(小説部門)最終選考結果と冲方氏による総評・講評をカクヨムにて公開しました。
https://kakuyomu.jp/contests/ubukata_juku_contest

というわけで、長らくかかりましたが、講評等がようやくアップされたもよう。

今後、小説部門においては、主に早川書房さんとともに受賞者の方々と向き合って参ります。
皆さんと一緒に、小説トレーニングを行う企画も準備中です。

ひとえに研鑽あるのみ!


【三月のお知らせ】

3月12日(火) 新宿ロフトプラスワンにて 
#蒼穹のファフナー 究極BOX発売記念トークイベント』
に出演予定。

3月13日(水)
角川フロンティア文学賞の審査会

3月20日 
『マルドゥック・アノニマス4』発売予定
『マルドゥック・デーモンズ上下』同時発売予定

3月21日(木・祝日) 阿佐ヶ谷ロフトにて
『冲方サミット~タイトル未定~』
に出演予定。

以上。のはず。

ダイジェスト入れ忘れ

日本放送の吉田尚記さんからお誘いを受け、知的ゲームのイベントというものに参加。
吉田ネットワークで集まる、確か二十人くらいの方々とお話しました。

その後のお食事の席で、二村ヒトシさんの著作をサイン入りで頂きました。



オトコのカラダはキモチいい (角川文庫)
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この内容を小説にするだけで素晴らしく頭おかしい(誉めている)何かになりそうな気がする。