2017年11月14日火曜日

独想

僕たち大人は、命を絶つことの馬鹿馬鹿しさを、ちゃんと子ども達に伝えられているだろうか。
命を絶つほどの苦しみに共感した上で、それは選択肢から外すべきであること、他に選択肢があることを、言葉や態度をもって伝えられているだろうか。

この国には、自死を望む子どもらに、共感するふりをして弄ぶ、地蜘蛛のような大人が、いつでも存在する。

かつて似たような出来事があったこと、それが延々と繰り返されていることを、ちゃんと覚えているだろうか。
なぜ繰り返されるかを、子どもたちのために考えてあげられているだろうか。

命を軽んじるのではなく、重んじているからこそ、人は命を絶とうと考えてしまう。
その重さを訴えれば訴えるほど、深みに陥る。
そういう子どもにとって、人生なんてどうにでもなると教えることが、他人から見れば自分の悩みがどれほど滑稽か、その命がまだまだ軽く、他人にすら自由にしてしまえるということを教えることが、どれほど救いになるか、示してあげられているだろうか。

命は最後の砦だ。
その砦を明け渡すことを考えてしまう苦しみを、身近な人間の誰にも打ち明けられないのは、生まれ育った一つの常識の中で、全てを考えてしまうからだ。

遠い他者を頼ってしまうのは、自分を捕らえる一つの常識とは異なる、別の常識と接することで、解放されることを無意識に願うからだ。

だがどんな常識も、結局のところ、最初で最後の前提に立ち返るものであることを知ってさえいれば、極端で陰惨で、希望のない結末に襲われることはないのではないか。

人間は、生きていること、それ自体が最初で最後の希望なのだ。

大人達だって、結局のところ、かろうじて、滑稽に、悩み続けてなお生きていることを、せめて伝えるべきではないのか。
そうすれば、自分が生きるためだけに、あらゆる他人を犠牲にせざるを得ないほど、行き詰まった大人が、どれほど多いかも、伝わるのではないか。
そうした危険をあらかじめ知っておくことができるのではないか。

かつて僕が育ったネパールで、内戦が起こり、そこで生き抜いた友人が言ったことが忘れられない。

「内戦で一万人以上死んだ。でも、日本では一年で三万人くらい自殺するんだろう? 日本に比べれば、この国は平和だよ」

この国は豊かだが、それだけだ。
豊かで重みがあるからそれを捨てることに価値を生み出す。
それが、どれほど滑稽か。
それが、あの小説を書いた理由だ。