2010年12月8日水曜日

【映画化】※本日のお知らせ※【決定帯登場】


『天地明察』八代目帯完成!
  じきに書店でも販売開始。過去七代とは一線を画す、賑やかな振り袖帯となっております。
 派手だ。
 映画化という、これから長い戦いが始まる景気づけでございます。


『天地明察』が舟橋聖一文学賞を受賞しました!
http://longlife.city.hikone.shiga.jp/funabashi/
 本屋大賞、吉川英治文学新人賞、北東文芸賞に続き、さらに授与されました。
 さらなるプレッシャーと奮起の機会をいただけたこと、改めて多くの方々に育てていただき、選考作品として下さったことに、深く感謝を申し上げます。
 かえすがえすも生(?)「ひこにゃん」が見たかったです。



都条例および諸議論に対する試論

 先日の都条例に関することで、多少の試論を追加したいと思います。とはいえ、コメントを求められ、さらに対抗意見に対するコメントを求められ……と、ひっきりなしの循環は望むところではありませんし、現在の僕の仕事ではありません。この件についての取材は一切ご遠慮願いますが、代わりにあらかじめ試論を載せますのでご参照下さい、という次第です。
 また、ここでの試論は、これまで人類社会が見出してきた表現の自由や差別を受けない権利などの偉大な権利についての議論とは、まったく異なります。
 なぜなら、条例の対象となっている「子供にふさわしくないものを、子供に見せない・買わせない」ことに対し、敢然と主張する子供たち、もしくは子供たちの代表者たることを自任する者によるそうした言論が、今のところ存在しないからです。
 たとえば、「日本人は子供を守らない」という世界的なバッシングによって観光客が激減し、貿易にも支障をきたすとか、逆に「子供にも性行為の権利と能力があるし、その表現や知識習得は当然の権利だし、何より性行為と強姦は別物だ」などといった「子供性行為権」のようなしろものが子供やその代弁者の側から大々的・世界的に取り沙汰されるなどといった事態にならない限り(なるとも思えません)、話はいたずらに大きくすべきではないし、議論の範囲を拡大すべきではありません。
 あるのは「子供を対象とする性的描写と、子供の自由意志を破壊することを肯定する描写もしくは現実問題」についての、政治上・商業上・教育上の議論であると認識しております。
 これらに関し、特に意識すべき、もしくは議論されるべきことがらがあるのではないか、という点を下記に述べます。


1)「大人」の定義を消失させてはならない
 人間は模倣する――ではいつから、どのようにして選択するのか?
 模倣の重要性は、子供を見ればわかる。目にした行い、聞いた言葉、経験されたことがらを自ら反復し、再創造することで人間は学習してゆく。その学習の意味を理解するのはたいてい後になってから、幾多の反復に何らかの価値観・人生観・世界観が伴うように――もっといえば記憶がきちんと蓄積されるように――なってからである。なぜ「子供に見せない・買わせない」ようにするのか。その根拠は、彼らにはまだ模倣する力だけがあり、そこに独自の「責任能力・判断能力・選択能力がない」からである。だからこそ親はまず何より、子供の手が届くところに危険な物品を置かないことに苦労させられる。父親の拳銃で遊んでいるうちに、誤って四歳の弟の頭を吹き飛ばしてしまった八歳の男の子の話を持ち出すまでもなく、それが子供を守る最も大切な行為であるからだ。
 次に、子供たちに知恵がつくに従って、子供たち自身がそれらの物品の正しい扱い方を学習できるようになると、今度は次々に子供が自由に扱える物を増やしてゆかねばならなくなる。そうなるとやがて親は、物品そのものではなく、それらがもたらす「影響」について考えざるを得なくなる。それほど子供の模倣能力は驚くべきものであるからだし、再創造する力は、ときとしてたやすく大人の想像を裏切るからである。しかも肉体的な能力は、どんどん大人と変わらないしろものになってくる。親やその周辺の大人たちは、子供を、自分たちの一員として――大人として――迎えるためのあれやこれやに奔走させられるが、大事なのは、その条件である。いったいどのような条件を満たせば、彼らは大人であると――独自の「責任能力・判断能力・選択能力」があり、かつそれらに失敗した場合、正当で社会的な罰則を科されるに値することになるのだろうか。
 法における「十八歳」という年齢区分は、いわば人間そのものを『成人コーナー』に区分する行為である。いったい十七歳と十八歳の間に、もしくは十八歳の周辺には、何があるのか? なぜ世界的にも、「十六歳」「十八歳」「二十歳」という年齢設定が効果的な基準として取り入れられているのか?
 最大の根拠は、義務教育とその後の高等・一般教育である。学校の教育がひと段落したからには、大人になる上でのそれなりの用意ができていなければならないし、用意が不足している場合であっても、彼ら一人一人が自らその不足を補ってゆけるだけの能力は身についているはずだ、という根拠である。
 よって年齢そのものにあまり意味はなく、教育が完結したからには「大人になっているはずだ」というのが「十八歳」という設定の根拠である。また、だからこそ、今回の法案においても学校やPTAによる関心や監視といった教育現場からの根拠作りが取り沙汰されている。
 だが果たしてこの根拠は、正しく「議論の根拠」として有効に自覚されているだろうか。
 というのも、「教育が終わっても大人になっていない未熟な者たちがいる」といった意見が散見されるからである。そしてそうした意見が、この「十八歳以上=大人=教育の完了」という年齢区分を――「十八歳大人説」を――曖昧にさせ、人間の『成人コーナー』の縮小や拡大のみならず消失といった恣意的で無秩序な議論を招いているのである。
 議論の共通了解が破綻し、代わりに、「精神的な成熟」という、いまだ実証不能の尺度が出現するわけだが、この言葉ほどわかりにくいものはない。肉体の成熟ならば、身長や体重や骨格といった「見た目」で判断できる。もし本当に「性的行為の許可証」のようなものを行政がもたらすとしたら、その根拠は、教育現場ではなく、医療の現場に求めねばならないだろう。純粋な身体検査によって「今日から性的行為に励んでよろしい」となる。もし身体に不備があれば、「治療」の対象にされる。どちらにせよ医療の現場から、「正しい医学的知識に裏付けされた性行為の知識」を学ぶ。検査の結果によっては「十二歳の大人」も、「二十五歳の子供」も現れるだろう。肉体の成熟だけを議論するならば、実際はそのほうが現実的だ。
 だが我々が実際に生活している「現実」はそうではなく、むしろそうした医学的知識の習得と正しい実践を、自主的に行えるだけの「責任・判断・選択の能力」を身につけることのほうが重視されている。そしてそれらの能力は全て、社会生活の中で他者の評価を待たねばならない不可視の成熟である。医療的な根拠はなく、「大人っぽい」「大人らしい」という他者の評価が全てとなる。
 よって、議論に際して一方的に、あるいは互いに成熟評価を下し合うことになれば、議論の土台そのものが希薄になるばかりか、教育の完了を前提とした「十八歳大人説」が消滅してしまう。「十八歳になっても精神的に成熟していない」ということは、その成熟の根拠を、教育現場以外の何かに求めねばならなくなるということである。そして我々は今のところ、教育現場以外に、人間を「精神的に成熟した大人として公的に認める」根拠を有していない。
 にもかかわらず、今回の規制を巡る議論において「精神的に未成熟な大人」といった矛盾した言葉がしばしば登場し、あたかもそれが喫緊の問題であり、かつ「精神的に成熟した大人」という解決策を示唆しているかのような(もしくは実際にそうなのかもしれないが、今回の規制とは根本的に別問題だ)扱い方をされる。
 正しく議論することを目的とするなら、これは「言ってはならない議論上のタブー」である。だがこのタブーがあっさり破られ、なし崩しになっているところに驚きを禁じ得ない。
「子供に見せる・見せない」以前に、いったいこの社会の誰が、どのような根拠で、「大人」であるのか? その「大人」とは、いったい何者で、どのような役割を負っているのか? もし本当に「未成熟な大人」がいるとしたら、それをどのように扱うのが社会的に正しいことなのか?
 自己の「責任・判断・選択」の能力があり、また義務づけられてもいる「大人」の論理的根拠が崩れたとき、当然のごとく出現するのは、「私は大人だが、君たちは違う」といった自己主張的な強弁である。根拠がないのだから強弁するしかないし、もとから他者の評価をもとにした根拠なのだから、逆に他者に「大人ではない」評価を押しつけることで、相対的に「自分は大人である」ことを主張せねばならなくなる。この馬鹿げた強弁の押し付け合いが、今回の規制にまつわる多くの議論を空疎なものにしているのである。中でも「私は大人だ」という根拠を、「私はこれまでこのような異性との性行為を経験してきた」という強弁に頼るなどというのは目も当てられない。いったい子供に何を見せないという話をしていたのか。
 よって、
「十八歳以上は全員が大人である」
 この根拠を決して否定してはならない。あるいは異議があるなら別の議論としてそれこそ「区分」しなければならないだろう。さもなければ議論自体が成立しないからだ。
 当然、大人は、大人として振る舞う義務を有している。互いを大人として認め合う「大人らしい」態度が必要である。そうした「大人らしい」態度を促し合うことで、いっそう誰もが「大人らしく」なる。
 そういう議論が期待されるし、そうでない議論は全て空論であると判断すべきであろう。


2)タブーは移動する

I)タブーの力学
 表現規制を誘発するのは現実の事件と、それによって生み出されるもろもろのタブーである。エンターテインメント業界においては、このタブーの扱いが問題となる。そしてこのタブーは常に移動し、そして波打つ。これを理解するには、タブーの機能と、その成立過程とでもいうべきものを理解しなければならない。
 まず、タブーになるものは何か。それは「誰でも知っているもの」である。あるいは何らかのきっかけで、誰もが知るところになってしまった何かである。
 コンゴのサバンナアフリカオニネズミが日本でタブー視されることは想像しにくい。だが、たとえば当地で日本人の三歳の女の子がサバンナアフリカオニネズミに生きたまま喉笛を噛み千切られて死んだニュースが全国的に知られた途端、サバンナアフリカオニネズミを描写することには、何らかのタブーが発生するようになる。喋るサバンナアフリカオニネズミを主人公にして、いたずら者で悪意に満ちた小さな女の子をこてんぱんにぶちのめし、最終的に少女の喉笛を噛み切って勝利する話など、金輪際――少なくともニュースが完璧に風化するまでは――出版も放映もできなくなる。
 こうした極端な例とあわせ、特に表現規制の対象となるものを考えればわかるとおり、ほとんどが「幼い頃からすでに見ているし、知っているもの」である。それが人間の肉体なら、なおさらである。母乳で育った子供が大勢いるのに、何を今さら女性の乳首を映す映さないが取り沙汰されるのか――理屈ではそうなるが、タブーにおいてはそうならない。
 このようなタブーの主な機能のうち、一つは文字通り「禁忌」であり、聖域のような貴く触れがたい観念にまつわる機能である。その一方が、「警告」であり、危険で不快な観念にまつわる機能である。これらのうち「警告」が、もっぱらエンターテインメント業界では、慎重に議論すべきこととして取り沙汰されやすい。
「禁忌」は、どちらかといえば喜ばれる。「初めてカメラによる撮影に成功しました」「ついに解禁されました」「禁断の」といった言葉の響きを考えればわかる。もっと言えば、当事者がはっきりしている。誰かが許可したり、踏み越えたり、実現したり、拒否されたりするわけだが、なんであれ「当事者の存在」に裏付けされていなければ禁忌とその機能は成り立たない。聖域の所有者だったり、権力者だったり、なんであれその由来がはっきりしているし、当事者と由来を切り離せば禁忌でもなんでもなくなる。
 一方で「警告」は嫌われる。しかも当事者の存在は問題ではなくなる。上記のサバンナアフリカオニネズミは、この「警告」的タブーを刺激する。別段、喉笛を噛み千切られた少女と、いたずら者で悪意に満ちた小さな女の子の間には、当事者という観点からすればまったく無関係である。だがしかしタブー視という点ではきわめて連想されやすい二つのものとして扱われる。
 こうしたタブーの変遷を理解するには、
 1)生理的嫌悪
 2)合理的タブー視
 3)非合理的タブー視
 という段階を考えるとわかりやすい。直近の経験から、合理的判断という濾過装置をくぐりぬけて純粋化され、非合理的タブー視に至るのが、たとえばエンターテインメント業界でのタブーの発生過程の単純な図式である。何もかもがタブーになるわけではない。だがいったんタブーとして認知されると、強固な効果を発揮し始める。
 簡単な例で言えば、「ヒ素カレー」である。事件そのものは保険金殺人であるが、これによって「カレー」が一時期、生理的嫌悪を催すもの、なんとなく嫌な気分を誘発するものとして、ほとんどあらゆるメディアから消えた。テレビにカレーを映すことそのものがタブー視されたわけである。
 これが、事件の進展とともに、合理的なタブー視に変化する。カレーを映して良い場合と、悪い場合に区分される。殺人事件のニュースの直後にカレーを映せば、容易に連想が働くから避けるべきだが、何の連想も生じさせないであろう番組であれば放映できる、といった判断が働くのである。
 やがて、この合理的な判断が、だんだんと非合理的なものへ変化し、定着してゆく。なぜならカレーが出現するバリエーションは、現実においてほとんど無限だからだ。
「シャツにカレーが描いてあって、そのシャツを着た人が殺されたら、放映や出版は可能か?」
 といった具合である。そんなこと、いったい誰に判断できるのか。誰も気づきもしないかもしれないではないか。だがしかし「責任・判断・選択」の能力がある大人であるからには、何かを決めないといけない。そうしたことが積み重なってゆくことで、
「はっきりカレーだとわからねば良い、これはハヤシライスだと言えれば良い、よってニンジンや肉の描写は避けるべきだ」
 などといった、ディテールが問題となる。
 しかし当然ながらこのディテールの根拠は希薄で、状況が変われば、あっさり対象は移動する。
「ニンジンも肉もOKだが、カツを乗せるといかにもカツカレーになるからダメだ」
 といった具合である。そしてこのタブーの移動が、やがて波打ち現象とでも言うべきものを起こす。
「このカツは色が紫色だからカツに見えないので、カツカレーだけどカツカレーではないということで描写が可能である」
 となる。カツである事に変わりないし、カレーであることすら変わりないのだが、自主規制の厳格さという点で、まるで波のように高くなったり低くなったりするのである。その上下運動は、「全カレー禁止」から「全カレーOK」の間に存在するほとんど無限の価値観を行ったり来たりし続ける。
 やがて、何かのきっかけや、信頼関係の構築といった点から、タブーの解決的氷解とでもいうべきものが訪れる場合もある。
 たとえば「911」事件後、「爆発」がタブー視されたことだってある。SFアクション漫画やアニメにおいて「爆発」描写を避けるために、「光らなければいい」「炎をあまり描写しなければOK」といった、目まぐるしい線引きが行われた現場がある。だが過去のエンターテインメント業界における蓄積と、何より観客との共通了解において、「爆発を描いたからといって、ツインタワーの惨劇を肯定しているわけではない」という信頼関係が強く発揮されることで――作品や制作会社のブランドへの信頼などによって――あるとき忽然と、タブーが解決的氷解を迎え、「爆発OK」が暗黙の了解となる。
 これが表現規制における単純な図式であり現実である。性描写のタブーもまた、大いに移動し、そして波打つ。


II)現代における「タブーの開拓」
 志村けんの「だいじょうぶだあ」ではゴールデンタイムに女性の乳房が堂々と映されていたらしい。だが代わりにその女性の顔が、スイカのマスクやら何やらで隠されていたことが多かったという。匿名性によるタブーの回避であろう。その女性が何者であるか、個人が特定されなければ――もっと言えばスイカのお化けといった人間ではないという設定が成り立てば――女性の乳房自体はタブーではないという考え方によるものであろう。
 現在、こうしたタブーは、より複雑化している。それはつまりディテールがよりはっきりと際だってくるということでもある。特にわかりやすいのが「乳首・陰毛・性器」である。これらがテレビ・漫画・映画において、途方もない数のバリエーションで取り沙汰されるし、海外の作品をふくめると、もっと複雑になる。三点がセットで映されなければ良いとする場合もある。一点でも写っていれば作品自体がNGとされる場合もある。
 背景が温泉であれば必然性があるので良いとすることだってある。『湯けむりスナイパー』のドラマ版は、「久々に女性の乳房が公共の電波で放映された」作品とされている。その解決的氷解をもたらしたのは、「湯けむり」という、タブーを打ち消す連想を働かせる強力なキーワードにあるだろう。決して「スナイパー」ではないことは確かだし、「遠くから覗く」ことを連想させるキーワードが、性的タブーに解決的氷解をもたらすことはない。もともと日本人にとって「混浴」は生活的な必然性のある行為である。「湯けむり」の記憶が、様々なタブーを解決的氷解に導く。
 こうしたことがらには、それぞれに、合理的・非合理的なタブーが存在し、さらにはその独自の解決的氷解の力学がある。そのような「タブーの開拓」――いったんタブー視されたものが解決的氷解に至ることで、いうなれば「安全が保証された領域」が広がるということを、エンターテインメント業界は繰り返し行ってきた。いわば「警告」の解除であり、業界に肩入れした言い方をさせていただければ、タブーとその氷解を経験することによる業界の「成熟」である。
 この点で顕著なのは暴力描写・残酷描写だ。
 今現在に限っていえば、これほど気を遣わなくてよくなったことを驚く人々もいる。暴力や残酷さの描写の大半が、「暴力や残酷さをいたずらに賛美しなければ良い」というだけで許可される。もちろん「赤い血を画面中にまき散らすのはダメ」といった、ディテールにおけるタブーの波打ち現象は幾らでもあるが、おおむね全体のタブー視の度合いからすれば、もはや「必要ない」といわんばかりである。
 もちろん残虐な事件が発生し、全国ニュースになれば一時的に全ディテールがタブーであるか否かの線引きの必要にさらされるが、その時期が驚くほど短くなったのは確かだ。中には固定されてしまった「カッターナイフで首を切る」や「首を校門の前に置く」や「子供を食べる」といった、実際の事件によるショックを考慮したタブーは厳しく存在する。
 だが、まったくダメかというと、そうではない。タブーを解決的氷解に導くキーワードや背景を用意することが、多くの場合、可能になってきている。そしてそれが倫理的な退廃であるとは思えないし、現在のところ、そういった議論はあまり聞かない。むしろ、金銭を支払って購入したのであれば、購入する者にも閲覧時のショックに関しては責任があるし、購入時に判断や選択を可能とする情報が存在する限り、問題にならない場合が多い。
 これが自主規制による一定の成果である。タブーの波打ち現象に根気よく付き合い続けることでしか、こうした社会的信頼関係は築けない。
 タブーの成立が異なる海外への販売の際も、問題になるのは根気であって、過激な主張ではない。
 このように、タブーの解決的氷解は多くの場合、可能である。そして可能ではない場合に限って、そこに何らかの社会的な特徴を発見することになる。その社会が現在抱える「記憶」とでも呼ぶべきものだ。我々エンターテインメント業界が、その制作販売の一番のニーズとしてとらえているものもまた、そうした「記憶」である。共通了解としての――この社会が今、どんな共感によって成り立っているかを教えてくれるものとしてのタブーであり、ニーズである。
 そして、そうしたタブーについての認識が不足した規制は、多くの「記憶」を消してしまう。かつて何があったかはさておき、とりあえず規制されている。規制された対象については、もはや思考を停止するのが最も妥当である。そういう態度によって、何が得られて、何が失われるのか、議論すらしなくなる。共有されたタブーとニーズが消失し、規制周辺に空白が生じる。そこに業界の「成熟」はない。
 それが法的規制の怖さであり、我々エンターテインメント業界が自主規制を尊重する理由である。
 

III)規制を唱えることが人を不快にし、感情的反発を招く理由
 今回の都条例にまつわる議論に関し、規制を主張する側が最もしてはいけなかったことは、その訴え方である。さらにその反論者にも同じ事が言える。
 行政と業界が足並みを揃えることは可能だったし、今なお可能である。事態の改善と、業界のより良い成熟を目指し、ともに一体的に努力していけるはずである。なのになぜ感情的反発を招いたか。理由として考えられるものの一つは、「規制者自身の告白のような不快感」であり、一つは、「利益の逆転と、原告不在の裁判ゲーム」である。

①規制者自身の告白のような不快感
 これは先に述べた、「大人であることの根拠を、相手を未成熟とする強弁によって証拠立てようとする空論」の、ちょうど逆の構図である。
 あるものごとをタブー視している、という自覚の根底にあるものの一つは「自分や他者がそれをコントロールしていないか、もしくはできないのではないか」という不安の自覚である。
「私は性的興奮や、興奮をもたらす物品をタブー視する」
 と主張するとき、
「なぜなら私にとって性的興奮はコントロールが難しいか、場合によっては到底コントロール不可能なものであるからだ」
 と主張しているも同じなのではないかと思わせられる場合がある。
 さらに始末が悪いのは、タブーとは何であるかを考えた場合、「それが経験的にも妥当であるという実感がなければ、本気でタブー視することは難しいに違いない」という直感的理解が生ずるところにある。
 つまりある人間が、単純に性的描写の規制を唱えた場合、
「これは私自身の経験からくる厳然たる知識である。なぜなら私自身、性的興奮を刺激されたことによって見境がなくなったか、なくなりかけた経験があるからである。その上、現在にいたるも私自身、正しいコントロールのすべはなく、そのような危険な興奮を刺激するような物品は、私をふくむ全ての人々の視線から遮蔽されるべきである」
 と、言っているかのような不快感を抱くのである。
 タブー視を公言するときに気をつけねばならないのは、こうした「暗黙に告白しているかのように感じられる」気分を誘発することである。
 加えて今回の議論では、子供が対象となっていることから、より生理的な嫌悪を強く刺激するものとなる。すなわち規制を主張する言葉の一つ一つに、
「私は規制を望む。なぜなら、かくいう私自身も子供を強姦できるとなったら、その欲求にはとても抗いがたい魅惑を感じるからだ。もし私が今より精神的に未熟な頃だったなら、こんな刺激的な品々を与えられた場合、とても我慢できずに実行に移したことだろう」
 とでも告白されているかのような、きわめて不謹慎な発言に対する不快感を刺激されるからでもある。しかもその人物が、より多くの人間に、強く規制への同意を求めれば求めるほど、
「君も間違いなくそう思っているはずだ」
 と言われているかのような気分をも味わう。タブーは共通了解と同義である。実際にそんな馬鹿げた告白が行われているかどうかは問題ではない。「そう言われているかのような、もやもやとした嫌な気分を刺激させられる」という点で、タブー視の公言そのものが、タブーを冒しているような不快感を催させるのである。
 そして、規制を唱える人間そのものに対し、「なんとまあ、そんなことを真顔で、この上なく真剣に、かつ声高に唱える恥知らずを前にして、不快感を感じずにいられるのは難しい」と感じる者が出てくる。規制を唱える人間のほうをむしろ恥知らずとして見てしまう気分の一部は、このようにして発生する。
 フェミニズムの議論を空疎なものにした理屈も似たようなものだ。「女性を尊重すると公言しているこの男は、結局のところとことん女性を蔑視しているのではないか?」という理屈である。
 あるいは、かつてホラー作品がタブー視された際の――規制の対象として真面目に議論された際の――きわめて一般的な生理的嫌悪感がある。「ホラー作品を嫌っているこの人は、まさに自分はホラー作品に影響されかけたことがある、と言っているのだろうか。何の理由もなく気分が良いからというだけで今まさにお前を惨殺することはいつでもできると言って、私を脅しているばかりか、そのことを楽しんでいるのではないか」という嫌な気分である。
 こうした主張の裏返りは、たやすくバリエーションを生み出し、
「私や君たちが育てている子供たちは今まさに強姦の危機に直面している。その危機をもたらしているのは他ならぬ私や君たちだ」
「私や君たちの家族はまったくもって犯罪予備軍であり、ただちに効果的な処置をとらねば、世の中に犯罪者を増やすことになる」
「私や君たちの子供は、今まさにポルノ商品の対象である」
 といったことを言われているかのような不快を感じる人もいるだろう。そして本来正当である主張であったとしても、自らその主張を「警告」的タブーの対象にしてしまう。
 こうしたバリエーションは、だらだらと果てしなく広がっていくし、だからこそ「考えるのも面倒になるにもかかわらず、何か言ってやらねばすっきりしない気分になる」ものとしてとらえられる可能性をいっそう助長するのである。 
 そんな気分に裏打ちされた発言が、議論に値するはずがない。タブーについての議論そのものをいたずらに感情的に、空疎なものにするばかりである。「他者へ害を及ぼさせるか、そうした影響を及ぼさせる可能性のある」ものごとを、一時的にせよ恒久的にせよ「禁ずるべき」と訴えるとき、その主張によってどういった感情が生まれるかを、慎重に考慮すべきである。さもなければ議論の正しさとは無関係に、
「かくいう私も、議論されているものに等しく危険な存在なのだ。君たちも、君たちの子供も、みんな危険だ」
 とヒステリックで身も蓋もない主張を聞かされているかのような気分を相手に与えることになる。
 もちろん、この逆もまた真なりである。規制は必要ではないという強い主張もまた、同様の不快感を催させることになりかねないし、だからこそ慎重で確実な議論が必要とされるのである。
 

②利益の逆転と、原告不在の裁判ゲーム
 単純な図式である。条例を望む側と、望まない側、危惧された事件が現実に起こったとき、どちらが有利となるか? 今このとき、子供が現実に強姦されることで、有利となるのはどちらの陣営か?
 答えは明らかに規制を望む側である。それが条例成立の何よりの根拠となってくれるからだし、規制を望まない側の反論を封じることになるからである。
 もちろん、条例成立のために実際にそのような事件を意図的に起こさせるといったことではない。そういった「連想」を人に与えるということが問題なのである。タブーは「連想」であり、それが現実になるのではないかという「空想」に裏打ちされている。
 タブー視することにおいて、「現実の規制対象とするには、その必要性を裏付ける現実の出来事がなくてはならない」と考えるのは、単純な計算能力に等しい理性の働きである。そしてこの理性によって、むしろ様々な空想と、それによる感情のバリエーションが生み出されることになる。
 その最たるものが、「結びつけられるのではないか」という不安や不快感であろう。何かが起こったときに不利になる側の強い感情である。何ら関係のない事件と、自分たちとが結びつけられてしまうのではないか。いや、今まさに結びつけられて語られているのではないかという感情である。
 さらに無関係な傍観者が、「これらのことがらは結びついているのではないか」と空想することで、それが何より「現実に起こった」ことに等しい効果を発揮する。
 これがさらに多くの人間に不快感を与える。なぜなら、今回の規制を訴える側が主張することがらが現実のものとなった場合、まず万人が不快になり、嫌悪を催すことは疑いがないからだ。あるいは少なくとも、何かしらの感情は刺激される。
 僅かな書籍の存在によって、今まさにありとあらゆる子供が性的に蹂躙され、しかも保護者が子供を商品とみなし、そればかりか子供たちが悪意を学んで、さらなる性的暴力に目覚めてゆく――そんな無政府状態の戦場さながらの現実を「空想」させられるわけである。
 しかもこうなると、現実に解決されねばならない個々の事件は、もはや無関係だ。実際よりも、いっそう残虐に誇張され、あたかも解決する力は誰にもなく、訴えを起こしている人間たちにのみ正しい解決の道が知らされているような、それこそエンターテインメント業界においては、ただ一言、「不謹慎」と呼ぶべき空想である。
 それを馬鹿馬鹿しいと判断するのは理性だが、タブーにまつわる感情は大いに刺激されるばかりであり、しかもそうした感情を抱いているという事実は現実に属する。
 そういう意味で、規制を望む側は、空想上ではあるが本来防ぐべき現実を「実現させること」で規制に根拠を与えようとしているのであり、それこそこの議論の最大の問題点を示唆している。
 議員やその支援者たちが、教育現場や保護者の会合に現れ、わざわざ少部数しか出版されていないような過激な成人向け作品を掲げ、その場にいる者たちに性的描写が満載のページを見ることを強要するのは、なんのためか。最悪の現実を空想させるためである。そうした行為を、理性は馬鹿げているとみなすが、感情はそうではない。議員やその支援者たちが、自ら最悪の現実を今まさに実現してみせたのだと感じる。しかもその現実を防ぐための規制に根拠を与えるために。
 なぜそうした本末転倒が生じるのか。原告が不在だからである。「子供を守る」という目的は正しい。だがしかし、大多数の子供たちやその代弁者たちが一斉に立ち上がり、自分たちの心と体を防ぐために規制を訴えたわけではない。あくまで一部の大人たちが、「子供のためになるに違いない」という確信にもとづいて行ったことである。
 訴えている人間がいないのだから、空想を刺激し、「今まさに訴えている子供たちを想像させる」しかない。あるいはそうした想像を可能とするような「代弁者らしい人」を引っ張り出して訴えさせるしかない。そうしたことを快いと思う者はほとんどいないだろう。むしろそうした空想を全面的に受け入れ、わくわくしたり昂揚したりする人間がいるのではないか、そういう人間こそ「危険なのではないか」というタブーの感情を刺激されることになる。
 現実に訴えている人間が不在のまま議論が進行するとこうなる。規制の根拠を訴える最も効果的な方法は、現実にそうした無惨な事件が次々に発生することである、と容易に想像されてしまう。「本来の目的からすると不利益そのものだが、目の前にある目的(条例成立)からすると利益となる」典型である。そのタブーのバリエーションは無限であるから、とめどなく想像させられる。利益や価値観の逆転による「本末転倒」は、問答無用で人を不快にさせる最たるものだし、その上、想像上のタブーが増えていくとなれば、どこまでも不快になる。そして不快になればなるほど、その不快感を与えた者を有利にし、喜ばせるという気分にさせられる。あるいは実際、その通りになる。それがまた救いようのない不快さを呼ぶ。最も簡単に楽になる方法は、そもそもそんな議論から遠ざかり、無関係でいることだ。しかしそれでは何の解決にもならないし、社会の改善から遠ざかるばかりだろう。
 本来の正しい筋道に戻るには、問題の根底にある都民の不在に目を向けるしかない。「訴えの根本を司る、政治家を動かしたはずの都民の存在」がなければ、空想による不快感は永遠に終わらないことになるし、さらにその不快感が行き着く先は、「政治家のために都民がいる」という嫌な気分である。
 その嫌な気分を回避するために、署名運動が行われているわけだし、それに対抗するために反論者もまた署名を集めるわけだが、その空疎さは避けがたいものがある。1000万人以上も人間がいる都市で、しかも誰しもが無関係ではいられないような議題で、数万人の署名を集めたところで、推進者も反論者も、どちらの陣営にもさほど説得力は生まれない。それに何より、これは多数決で解決して良い問題でもない。
 政治家やその反論者が「正しい」と主張する世界を実現するためだけに、都民が「正しくないこと」を絶え間なく空想させられ、あたかも「正しくないこと」が次々に現実化することによってのみ証明される「正しい」世界を受け入れねばならない気分になる。そういう馬鹿馬鹿しい理屈に伴う不快感は、そうたやすく拭えるものではない。
 こうした不快感は、正当な議論によるものではないどころか、ただの空想ゲームによる利益獲得競争の結果にすぎない。どちらの陣営がどれだけ都民に効果的に空想を押しつけ、嫌な思いをさせたかを競うゲームだ。
 このような、原告席が空っぽのまま裁判を強引に続けるような真似はやめるべきだろう。そんな姿を見せつけて市民を失望させるのではなく、行政は中立な執行者であり、あらゆる機関の一体的な協力を促す力を持っているし、エンターテインメント業界は万人のニーズとタブーに応えるという使命に誠意をもって全力で応える、という本来の態度に戻るほうがよっぽど健全だ。
 絶え間なく生まれては波打つタブーと付き合い続けているエンターテインメント業界、実際の教育の現場、教育の現場をもってしても守れなかった子供たちを保護し、治癒する団体や施設、子供の肉体面での安全を保証する医療機関、そういった専門的な人々がより多くの情報を共有し、より「安全で豊かで正しい」上に、「楽しく刺激的でどきどきわくわくする」社会を目指すことは、まったくもって可能なはずである。
 そしてその中心に、中立的立場の行政が位置することこそ最善なのではないだろうか。

3)タブーの行方
 なんであれ、タブーは移動する。ディテールへ辿り着く。そして波打つ。
 暴力描写がタブー視され、やがて効果音、血液、死体、死に顔、傷口……といったディテールへ辿り着き、「以前は血液とわかるもの全般がダメだったが、今は赤くなければ放映できる」「今は死体はOKだが、死に顔は映さないように」といった、非合理的な波打ち現象を起こす。血液に対するタブー視がどこかで高まれば、殴られる瞬間の人間の苦痛を訴える顔に対するタブー視はどんどん低まっていく。血が画面上に出ない代わりに、人間の苦痛の表情を描写する技術は大いに高まってゆく。ある登場人物が肉体的な打撃を受けたということを伝えたいがために、ビルどころか都市や地球すら木っ端微塵になったりするようになる。そして気づけばタブーが移動し、壊れるビルの種類や、木々が倒れるさまに、色々な制約が課されては解除されるようになる。映画『トランスフォーマー』では、撮影時に倒したのと同じ数の樹木を植えたということをアピールする必要に迫られたように。
 性的描写も長らく様々なタブー視が行われ、馬鹿馬鹿しいほどのディテールを生み出してきたし、これからもその波打ち現象は続くだろう。それは本質的には、過激な描写を売りにすることで客を集めるクリエーターや、特定の政治家が推進しようとする規制とは何の関係もない。とはいえタブーは衆目を集め、ひいては政治的・商業的に有用であるという事実は変わらないだろう。だが結局のところ、そこまでだ。ある作家や政治家にとって有用であったとしても、彼らの寿命も永遠には続かない。ニーズや政論の変化や、あるいは一人の人間の死によって、どれほど一世を風靡しようと、ニーズや政治的な有用性もまた波打つ。
 結局のところエンターテインメント業界におけるこの話題は、「人間はなぜタブーを持っているか? タブーは何の役に立っているか? タブーに代わるものはあるか?」この三点が疑問の余地もなく完全に解明され、誰もが社会生活を営む上で応用可能となるまで続くだろう。
 現在、我々が生活する上でどうやらタブーは避けられないことらしい。だがその理不尽さや非合理的なものの考え方に不快を感じる人々もいる。だからこそ何かをタブー視することそのものを、やがてタブーとするようになってゆくのである。しかもそれすらディテールに辿り着いては、波を打ち始める。「どうやらこのタブーについては議論がたやすいが、あのタブーについては今は黙っておこう」というように。
 もはや「どのタブーであるか」は問題ではないだろう。エンターテインメント業界における本当の問題は、我々は今回の議論で、どこまで波打ち現象を自覚することができたのか、ということだ。なぜなら、過去の事例を一つ一つ丁寧に振り返ってゆくとわかる通り、じきにこの波打ち現象は全体的に穏やかになり、別のディテールがタブーにされ、それ以前のことがらについては話題にのぼらなくなる可能性が高いからだ。「そういえば以前は子供の性的描写全般がタブーにされたこともあったが、今は馬鹿げた事件のせいで女性のヘソを見せることが異様にタブー視されてしまって厳しい、子供について取り沙汰されている頃にこの作品を出せれば何の苦労もなかったのに……」というように。
 タブーの波打ち現象は、今後とも続けるべきなのか、それとも、完全な法規制のもとで終止符を打ち、思考することすら必要のない状態を歓迎すべきなのか。
 あるいは、タブーを共有することによる社会的な利益を、もっと自覚することで、より意識的で自由なタブーの生成をはかるべきなのか。
 我々は社会を成り立たせてゆく上で、まだまだこうして未知を抱き続け、少しずつ前進してゆくしかないのである。だからこそ、より多くの有意義な議論が継続されることが、何より必要なのではないだろうか。